その日は忙しかった。
ベネットの空けた穴を埋めるべく事務処理がいくつかあった。テレビのインタビュー、イタリアで打ち合わせ、戻ってきてパーティーにも出なければならない。
しかし、パーティーへ向かうリムジンの中で、わたしはなぜか動けなくなってしまった。力がまったく出ない。
「どうします?」
重役たちがうろたえる。「病院へ行きますか」
「いい」
わたしはシートにぐったりともたれ、目を押さえた。「J&L社のロッツが来ている。話さなきゃならない」
しかし、頭のなかを数千の蜂が飛ぶようにものが考えられない。
(なんだ、これは。どうしたんだ)
だれかの声が遠くで采配していた。
――ニューカムさん。パーティーのほうをおねがいします。わたしがマクスウェル氏を自宅にお送りします。
――すまないな。オルセンくん。場所はわかるか。メイフェアの――。
――運転手が知っているでしょう。マスコミにはこのことは内密に。
重役たちが車を降りていく気配がした。ドアが閉まった途端、涙がわっとあふれた。
手でおさえても勝手に涙があふれくだった。
(なんなんだ、いったい)
どこかの神経がおかしくなってしまったのだろうか。涙は出る。洟は出る。息はふるえて完全にむせび泣いていた。
「マクスウェルさん」
オルセンが声をかけた。「具合がよくないのですか。病院へいきますか」
わたしはようやくかぶりをふった。
「なんだか、疲れて、おかしい――」
彼からハンカチを受け取ると、わたしは口をおさえて本格的に泣き出した。からだが勝手に号泣していた。
自分でわけがわからない。ハンカチのなかで吼えるようにベネットの名を呼んでいた。
ふしぎだった。わたしは何か飲まされているのだろうか。
なぜ、ベネットなのか。
(べつに愛していたわけじゃない)
愛さなくていいから、ベネットと寝た。彼もわたしをもてあそんだ。それでかまわなかった。情欲だけでつながっていた仲だ。なにも期待はしていなかった。
だが、今は、まるで母親に捨てられた赤ん坊のようにうろたえている。見知らぬ土地にひとりぼっちで打ち捨てられたようだ。
オルセンは苦労して、わたしをフラットに運びこんだ。
わたしはまだ興奮していた。玄関にへたりこむと、床を打って泣いた。
「ベネットが行ってしまった。ベネットが! 犬もいなくなった、もう誰もいなくなった」
オルセンはしばらく待っていたが、やがて、わたしをひきあげ、寝室にかつぎ込んだ。上着と靴を脱がせ、ベッドの上へ放り上げる。
わたしはまだ泣きじゃくっていた。
(なんだと思っているだろうな)
とり憑かれたように騒ぎつつも、正気が残っている。オルセンの目を思い、恥ずかしかった。
(クレージーな会社に来たと思ってるだろうか)
オルセンは一度部屋を出て行くと、少しして戻ってきた。ガラスの触れる音がする。
「少し飲んでください」
酒を持ってきたようだった。わたしは顔を腕で被ったまま、首を振った。
――放っておいてくれ。帰って、今日のことは忘れてくれ。
だが、彼はいきなりわたしの首をつかむと抱き起こした。口づけ、あたたかいウイスキーを流し込んだ。
ゆっくりと火がのどをすべり落ちる。
わたしは涙で重いまぶたをあげた。
影がぼんやり哀れむように見ていた。あたたかい息遣いが触れていた。
ふたたび、唇が触れた時、わたしは抵抗しなかった。
オルセンの唇が首筋に触れている。母獣が汚れた子獣をなめるように静かに、辛抱強く、愛撫を落としていた。
わたしは阿呆のように、まだしゃくりあげていた。鼻も咽喉も腫れて息が苦しい。
すでに哀しみはない。ただ、うろたえていた。茫洋とひろがる闇の前で途方にくれていた。
ベネットはわたしのからだの半分を持っていってしまった。
片足で、片手で、やっていけるのだろうか。これから大勝負に出るのに、この弱々しさでやっていけるのだろうか。
(……)
空洞となったからだの上に、あたたかな影がのっていた。繊細な舌が乳頭をなであげる。快楽は小さな火花のように虚空にはぜた。
(ん……)
わたしはすすりあげ、身じろぎした。かなしみが疲れた吐息とともにこぼれでていく。
けだるい熱が下腹にたまっていた。思考のない空洞のからだに、光の細い線が走っていた。
「……うん――」
腰が浮きかかり、身をよじると、影はわたしの手首を抑えた。影はわたしの上にのしかかり、わが身を重ねた。
(!)
ペニスに影の熱いペニスが触れていた。ペニスは濡れていた。陰毛の感触が電気のように下腹をざわめかせる。
彼はワイシャツを脱がなかった。ワイシャツの下にも素肌の感触はない。板のように厚ぼったいなにかで胸をおおっていた。
影はわたしに被いかぶさり、口づけた。舌をむさぼりつつ、腰を浮かせ、ペニスをからめてくる。
(あ、ン……)
息をふさがれ、ペニスのもどかしい甘さにわたしは足掻いた。手で触れようと、懸命につかまれた手首に力を入れていた。ふるえるほど力をこめても、影の手はビクともしない。影は知らぬふりをして、わたしをじらしつづけた。
「アッ――もう」
首をそむけて、わたしは言った。「抱いて。抱いてくれ」
影はかすれた声でわらった。
「傷めますよ」
「いいから!」
わたしは大きく足を開いた。
オルセンがかすかに息をふるわせる気配がする。彼はわたしの両足を取ると、肩にかつぎあげた。
尻が浮き上がる。すぐに熱い鏃が深くねじりこまれてきた。
「アアアッ――」
皮膚の擦れる痛み。痛みとないまぜになった芳醇な快楽に、わたしはのけぞった。
オルセンの手が肩をわしづかみにする。彼はしたたかに腰を打ちつけ、わたしをおどらせた。
「アッ――ハ――アアッ」
腰の中があたたかい。うつろな体をあたたかく、甘美な旋風がかきまわしていく。
わたしは振り落とされまいと彼の腕にしがみついた。
「感傷的になるのは、これが最後です」
荒い息のなかで、オルセンが言った。
「泣いているひまはありません――あなたは世界を相手にした――戦争をしかけた――ついて来れない人間のことは忘れなさい――戦わなければ、殺されます。前を見なさい」
(わかってる。わかってるよ――)
快楽の際で、わたしは泣いた。わかっている。逃げるつもりはない。
だが、今日は、どうしていいかわからない。
|