独裁者 第9話

  
 その日は忙しかった。
 ベネットの空けた穴を埋めるべく事務処理がいくつかあった。テレビのインタビュー、イタリアで打ち合わせ、戻ってきてパーティーにも出なければならない。

 しかし、パーティーへ向かうリムジンの中で、わたしはなぜか動けなくなってしまった。力がまったく出ない。

「どうします?」

 重役たちがうろたえる。「病院へ行きますか」

「いい」

 わたしはシートにぐったりともたれ、目を押さえた。「J&L社のロッツが来ている。話さなきゃならない」

 しかし、頭のなかを数千の蜂が飛ぶようにものが考えられない。

(なんだ、これは。どうしたんだ)

 だれかの声が遠くで采配していた。

――ニューカムさん。パーティーのほうをおねがいします。わたしがマクスウェル氏を自宅にお送りします。

――すまないな。オルセンくん。場所はわかるか。メイフェアの――。

――運転手が知っているでしょう。マスコミにはこのことは内密に。

 重役たちが車を降りていく気配がした。ドアが閉まった途端、涙がわっとあふれた。
 手でおさえても勝手に涙があふれくだった。

(なんなんだ、いったい)

 どこかの神経がおかしくなってしまったのだろうか。涙は出る。洟は出る。息はふるえて完全にむせび泣いていた。

「マクスウェルさん」

 オルセンが声をかけた。「具合がよくないのですか。病院へいきますか」

 わたしはようやくかぶりをふった。

「なんだか、疲れて、おかしい――」

 彼からハンカチを受け取ると、わたしは口をおさえて本格的に泣き出した。からだが勝手に号泣していた。

 自分でわけがわからない。ハンカチのなかで吼えるようにベネットの名を呼んでいた。

 ふしぎだった。わたしは何か飲まされているのだろうか。
 なぜ、ベネットなのか。

(べつに愛していたわけじゃない)

 愛さなくていいから、ベネットと寝た。彼もわたしをもてあそんだ。それでかまわなかった。情欲だけでつながっていた仲だ。なにも期待はしていなかった。

 だが、今は、まるで母親に捨てられた赤ん坊のようにうろたえている。見知らぬ土地にひとりぼっちで打ち捨てられたようだ。




 オルセンは苦労して、わたしをフラットに運びこんだ。
 わたしはまだ興奮していた。玄関にへたりこむと、床を打って泣いた。

「ベネットが行ってしまった。ベネットが! 犬もいなくなった、もう誰もいなくなった」

 オルセンはしばらく待っていたが、やがて、わたしをひきあげ、寝室にかつぎ込んだ。上着と靴を脱がせ、ベッドの上へ放り上げる。
 わたしはまだ泣きじゃくっていた。

(なんだと思っているだろうな)

 とり憑かれたように騒ぎつつも、正気が残っている。オルセンの目を思い、恥ずかしかった。

(クレージーな会社に来たと思ってるだろうか)

 オルセンは一度部屋を出て行くと、少しして戻ってきた。ガラスの触れる音がする。

「少し飲んでください」

 酒を持ってきたようだった。わたしは顔を腕で被ったまま、首を振った。

――放っておいてくれ。帰って、今日のことは忘れてくれ。

 だが、彼はいきなりわたしの首をつかむと抱き起こした。口づけ、あたたかいウイスキーを流し込んだ。

 ゆっくりと火がのどをすべり落ちる。
 わたしは涙で重いまぶたをあげた。

 影がぼんやり哀れむように見ていた。あたたかい息遣いが触れていた。
ふたたび、唇が触れた時、わたしは抵抗しなかった。




 オルセンの唇が首筋に触れている。母獣が汚れた子獣をなめるように静かに、辛抱強く、愛撫を落としていた。

 わたしは阿呆のように、まだしゃくりあげていた。鼻も咽喉も腫れて息が苦しい。

 すでに哀しみはない。ただ、うろたえていた。茫洋とひろがる闇の前で途方にくれていた。

 ベネットはわたしのからだの半分を持っていってしまった。
 片足で、片手で、やっていけるのだろうか。これから大勝負に出るのに、この弱々しさでやっていけるのだろうか。

(……)

 空洞となったからだの上に、あたたかな影がのっていた。繊細な舌が乳頭をなであげる。快楽は小さな火花のように虚空にはぜた。

(ん……)

 わたしはすすりあげ、身じろぎした。かなしみが疲れた吐息とともにこぼれでていく。

 けだるい熱が下腹にたまっていた。思考のない空洞のからだに、光の細い線が走っていた。

「……うん――」

 腰が浮きかかり、身をよじると、影はわたしの手首を抑えた。影はわたしの上にのしかかり、わが身を重ねた。

(!)

 ペニスに影の熱いペニスが触れていた。ペニスは濡れていた。陰毛の感触が電気のように下腹をざわめかせる。

 彼はワイシャツを脱がなかった。ワイシャツの下にも素肌の感触はない。板のように厚ぼったいなにかで胸をおおっていた。

 影はわたしに被いかぶさり、口づけた。舌をむさぼりつつ、腰を浮かせ、ペニスをからめてくる。

(あ、ン……)

 息をふさがれ、ペニスのもどかしい甘さにわたしは足掻いた。手で触れようと、懸命につかまれた手首に力を入れていた。ふるえるほど力をこめても、影の手はビクともしない。影は知らぬふりをして、わたしをじらしつづけた。

「アッ――もう」

 首をそむけて、わたしは言った。「抱いて。抱いてくれ」

 影はかすれた声でわらった。

「傷めますよ」

「いいから!」

 わたしは大きく足を開いた。
 オルセンがかすかに息をふるわせる気配がする。彼はわたしの両足を取ると、肩にかつぎあげた。
 尻が浮き上がる。すぐに熱い鏃が深くねじりこまれてきた。

「アアアッ――」

 皮膚の擦れる痛み。痛みとないまぜになった芳醇な快楽に、わたしはのけぞった。

 オルセンの手が肩をわしづかみにする。彼はしたたかに腰を打ちつけ、わたしをおどらせた。

「アッ――ハ――アアッ」

 腰の中があたたかい。うつろな体をあたたかく、甘美な旋風がかきまわしていく。
 わたしは振り落とされまいと彼の腕にしがみついた。

「感傷的になるのは、これが最後です」

 荒い息のなかで、オルセンが言った。

「泣いているひまはありません――あなたは世界を相手にした――戦争をしかけた――ついて来れない人間のことは忘れなさい――戦わなければ、殺されます。前を見なさい」

(わかってる。わかってるよ――)

 快楽の際で、わたしは泣いた。わかっている。逃げるつもりはない。
 だが、今日は、どうしていいかわからない。



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