独裁者 第15話


 トムズ・ベーカリーのドアから、親子づれの客が出てきた。
 小さな男の子は腕いっぱいにパンの包みを抱えていた。外は雨だ。母親が傘を差しながらなにごとか叱るが、男の子は無視して歩いていく。

 わたしはそれを車の中から眺めていた。
 パン屋になんの用があるのか、自分でもよくわからなかった。
 フィンの姿は見えない。フィンに会いたいのかどうかもわからない。ただ、ぼんやりと店を見つめ、時間を無駄にする。

「行ってくれ」

 わたしは運転手にうながした。

 淡々と日が過ぎていた。
 オルセンは正式にアメリカへと立った。クオーツの買収は市場に期待感を持たせ、買い、を呼んだ。株価は高値で安定している。

 カーディフは完全に分解し、4G携帯電話開発部門と一部子会社を残して、売り払った。なんの騒ぎも起きなかった。
 わたしのまわりは墓場のように静かだった。




「マクスウェルさん。どうなさったのですか」

 ロペスはやわらかな声で聞いた。
 彼は腹をたてていた。
 わたしはペンギン買収のために何も動いていなかった。株主総会でも、買収を議題にかけなかった。ガードナーはついに、ロペスを寄越した。

「ガードナー氏に伝えてくれ」

 わたしは答えた。「今回の話はなかったことにしたい。役員会の承認が得られなかった」

 粗末ないいわけだ。いいわけを考えるのもおっくうだった。

「それは理由ではないでしょう」

 ロペスは身を乗り出して、わたしをのぞきこんだ。「本音を話してください。誰かから脅迫でも受けているのですか」

「いいえ」

「では、どうなさったのです。あなたは彼らの支持を得るために、階段を上って来られた。ひとつ上の階層で勝負するために。アルテミスを世界のトップに押しあげるために。ここで信用をフイにするのですか」

 ひとつ上の階層。
 片頬がかすかに痙攣しかかった。にわかに激しい思いがきざし、わたしはロペスを見つめた。笑いたいような慟哭したいような感情の渦が咽喉につかえた。

 息をつき、わたしは言った。

「あのキャンプは、ひとつ上の階層なんかじゃなかったよ」

 ロペスはわたしを見つめ、せき込みかけた。

「――まさか。まさか、こないだのバカ騒ぎでいやになったって言うんじゃないでしょうね。あんな冗談で? あきれた! あれはただのおふざけで、肝心なのは――」

「肝心なのはあれだよ」

 わたしは言った。「あの人たちはあれを愉しみに集まっているんだ」

「ばかばかしい!」

「いや、そうだ。みんな、心底楽しそうだった。マリファナでもやっているのかと思ったぐらいだ」

 彼はあきれ、あえぎかけた。

「だったらなんだって言うんです。罪のないストレス発散じゃないですか。悪さするわけでもなし。あなただって酒を飲んだり、ふざけたりすることはあるでしょう」

「あるよ。あるどころか、もっと恥知らずなことをやる」

 わたしはロペスに言った。

「わたしは彼らが下品だからいやになったというんじゃない。きみの言うとおりだ。罪のない、天使のようなイタズラだ。すっかり子どもに戻って、しあわせそうだった」

「だったら――」

「おかしいじゃないか」

 激しそうになり、わたしは一度目をとじた。

「おかしいじゃないか。すべてを手にした男たちが、あんな小さな森でしか幸せになれないなんて」

 ロペスが眉をひそめる。
 もう口をとじていられなかった。わたしは苦しい思いの噴きこぼれるままに言った。

「あの男たちは、この時代の勝者のはずだ。さんざん他者を嬲り者にして勝利をつかんだ男たちだ。利権のために紛争をつくり、他国を破壊し、自国さえ破壊した。減税で予算不足を演出し、福祉予算を吸い尽くせば、あの国はもうカラだ。さんざんやり尽くした。次はアフリカへ。ドバイへ。ごっそり金をもって移動だ。それで、――あれか? 銃に守られて、男同士でふざけあうために、世界中を掘り起こしてまわったのか」

 力がぬけ、笑いが鼻からつきぬけそうになる。

 ――悪魔ですら孤独はつらいらしい!

 あの男たちのはしゃぎようは、まるで長く餓えていた子どもが食事にありついたかのようだった。ロウソクの火に集まって手をかざす浮浪児たちのようだった。痛々しく、悲惨ですらあった。

 わたしは顔をゆがめた。

「あんなの上でもなんでもない。いまのままでも十分間に合ってるよ」

 ロペスはしばらく黙っていた。精神病の人間を見るような、どんよりした目をしていた。
 やがて、彼は大きく息をつき、言った。

「ペンギン・テレコムの買収、引き受けてはいただけないのですね」

「アルテミスにきみたちの金を入れたくない。今後、きみたちのクラブともつきあうつもりはない」

「わかりました」

 彼はソファから立ち上がった。

「ガードナー氏に伝えましょう。彼はあなたに期待していたので、腹をたてるでしょうな」

 わたしは見送りに立ち上がりもしなかった。彼は勝手にコートをとり、ふりかえった。

「マクスウェルさん。わたしはあなたがたエリートはそういう問題をとっくに超越したものと思っていましたよ」

 わたしは鼻でわらった。
 だれひとり超越している者などいない。超越していたら、支配者になどなるものか。




 ロペスが去った後、わたしは深夜のオフィスにひとり残った。
 暗い窓の前に立ち、町のしめやかな灯を黙って眺めていた。

 はるか下を車のヘッドライトが動いている。働きすぎの男たちもようやくくたびれはてて、帰宅していく。

(ガードナーは報復してくるかもしれないな)

 わたしはガラスに映った自分の顔をぼんやり見つめた。
 妨害か。スキャンダルか。あるいは力づくで潰されるか。
 そうなる前に経営から降りるつもりだった。

 アルテミスを去ることに、わたしは痛みを感じなかった。
 まだ麻痺したままでいるのだろう。悪鬼のように戦った八年のことは何も思い浮かばない。

 ふしぎと、フィンのことが思い出された。
 わたしは思い出して笑った。
 あの間抜けな出会い。ベネットを待って、すっ裸で自分を縛り上げ、そのままフィンに抱かれてしまった。

 レイプされているのに、ひどく興奮していた。
 どうなるのだろう、という恐怖感と、からだにのたうつ激しい歓喜にうろたえていた。

 フィンはやさしかった。嵐のような興奮が過ぎると、何度も何度もわたしにくちづけた。愛撫は無骨だったが、恋人のようだった。

 ――フィン。

 わたしは眼下の車の列を眺め、微笑んだ。
 いつのまにかワイシャツのボタンをはずしていた。手でからだをまさぐっていた。ベルトをはずし、ペニスを愛撫していた。

「んっ」

 指をアナルのなかにもぐりこませる。少し乱暴にいじりまわした。
 フィンの大きなペニスをおもった。尾底骨がとろけるような熱い彼のペニス。尻いっぱいに満ち、ふくむだけで腰がくだけそうになる甘さ。

 わたしは膝をひらき、さらに指を指し伸ばした。ぬるく疼く部分をもみこむ。

「ア……ン――」

 においのいい彼の胸を思った。古代の戦士のようなたくましい胸。腰を包んでしまう大きな手。笑いをふくんだ声。ひなびたしゃべり方。

「――ん――は――アアッ」

 もどかしい。わたしの骨ばった指では、何本足しても、彼のゆたかな体温の代わりにはならない。
 ガラスが曇り、夜の街がにじんでいた。わたしはぼやけた光を見つめ、ほほ笑んだ。

(フィン。会いたいよ。きみに)




 トムズ・ベーカリーはすでに閉まっていた。
 当然だ。すでに0時に近い。わたしは運転手を帰らせ、店の前に立った。

 上へあがる階段があった。
 だが、なんと言おう。
 彼はもう自分の言ったことなど忘れたかもしれない。突然来て、互いにバツの悪い思いをするのではないか。

 わたしは携帯電話を取り出した。もう、何度もかけようとして、ためらってきた番号を探し出した。

(なんと切り出そうか)

 コール音を聞く間、わたしは初恋の少年のようにうわずっていた。
 人影がわたしのほうへ近づいたが、ふしぎともおもわなかった。街灯がその顔を照らす。

(東洋人?)

 見たような顔だ、とおもった時だった。
 背後に足音がたった。ふりむこうとした瞬間、首の根に重いものが落ちてきた。
 世界がゆらりと回り、わたしは地底へと吸い込まれた。



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