「マクスウェルくん」
公衆浴場の庭園で昼寝をしていると、低い声が呼びかけた。
人影が見下ろしている。わたしはベンチの下に手をのばし、眼鏡を拾ってかけた。
見知らぬ中年男が葉巻をくわえて立っていた。
丸い頭には薄い髪がきれいに撫でつけられている。スーツはいいものだ。なごやかな、人の良さを感じさせる丸顔。だが、眼に生気がありすぎるところを見ると、素人ではない。
(あ)
わたしは身を起こした。「サットンさん。これは――」
いま、やっきになって手に入れようとしているカーディフ・エレクトリック社の会長だった。
「エロスのように悩ましいヌードだ。誰のペットかと思ったよ」
サットンは葉巻をくわえたまま、ほがらかな笑みを浮かべた。「わたしの会社に噛みついてきた野良犬だったとはね」
「カーディフの肉は腐りかかってますよ。買い手がつかなくなる前に手放してください」
わたしはベンチの下に脱ぎ捨てたバスローブを拾った。
サットンの足元に二匹の東洋人の犬がおとなしく侍っていた。ふたりとも目が暗く、その体には青い刺青がまとわりついている。
奇観だった。
どちらも引き締まった狼の体つきをしていたが、胸にたわわな女の乳房がついている。いずれも、ポルノ女優なみの巨乳だった。
「手術したのですか」
「ああ。ホルモンだけじゃ大きくならなくてね。わたしはデカパイが好きなんだ」
サットンは犬に命じ、わたしに挨拶させた。犬が大きな胸を揺らして這い進み、足指にキスを落とす。そのまま下がらず、彼は柳葉のような切れ長の目を伏せ、おすわりをしたまま何かを待った。
サットンが眉をあげた。「触ってやってくれないのか」
わたしは苦笑した。
「けっこうです。食塩バッグに興味はありません」
「いいものだよ。レズショーもいける。この子たちはシャイでね。服を着せて犯すのもかわいい」
「サットンさん」
わたしは切り出した。「おいくら欲しいんです? そろそろ決断していただきたんですが」
「1兆ポンド」
サットンの明るい茶色の目がわらった。「1兆ポンドもらっても、アルテミスには売らん」
「なぜです」
「きみが嫌いなんだよ。マクスウェルくん」
サットンはフクロウのようにわたしの目を見つめた。「きみはよからん男だ。根性がうすぎたない。誇りのない、洗脳された、金の奴隷だ」
「ひどいことを。ですが、カーディフとて――」
「きみが何のためにカーディフを買うのかわかっている。誰とつながっているのかも」
わたしはサットンを見返した。
「だれとです?」
「ダラス。ダラス・グループ。彼らはきみに会う前に、わたしのところへ来たんだよ。知らなかったかね」
わたしは鼻白んだ。
わたし以外誰も知らないはずの名だった。
(これはダメか――)
この男はわたしの目的を知っていた。その上で拒絶しているのだ。金で解決することはできない。
「わかりました。あなたの同意は得られない。では、株主たちの判断をあおぐことにしましょう」
「きみたちは敗北する」
「再就職先を決めておいてください。カーディフの経営陣はいりませんから」
サットンは葉巻を口から離し、陽気に笑った。
「きみこそ用心することだ。監査を買収しようなんて考えるんじゃないよ。手がうしろにまわったら、ここの会費も払えなくなってしまうからな」
彼はウインクすると、巨乳の東洋人たちを引き連れ、去っていった。
(喰えない――)
わたしは毒づき、ベンチにあおむいた。
サットンは何十年もカーディフ帝国を守ってきた老戦士だ。政界とのつながりも深い。その男が本気でわたしと対決すると宣言してきた。
面倒な戦いになりそうだった。
わたしはカーディフ株の公開買付けを開始した。
一株に対し、前日終値1.40ポンドに60パーセントのプレミアをつけ、2.24ポンドというおうばん振舞いで株主に応募を呼びかけた。
「アルテミスへの批判記事が多くなりましたね」
会議の前に、部下が新聞をテーブルに並べた。
新聞、テレビで、カーディフ買収劇が話題にのぼるようになった。
内容は企業買収を繰り返すアルテミスの財務状況を疑うといった、こちらに不利なものが多い。
「これって、ジューイッシュ・デンティスト(イメージダウン作戦)ですよね。コード違反にならないのかな」
アメリカとちがい、わが国では買収される企業が防衛策をとることは禁じられている。
アルテミスかカーディフ経営陣か、どちらに会社を預けるかは、いっさい株主の判断にまかされる。
だが、それも表向きのことだ。水面下では懸命に足の蹴りあいをしている。
重役のひとりが新聞をながめて嗤い、
「マスコミ戦法は小口投資家にはいいかもしれんが、カーディフの大株主の大半は投資銀行だ。こんな、風のうわさで企業価値を見誤るヘマはせん。サットン会長は戦術をあやまったな」
「たしかに消極的ですよね。ホワイトナイト(現経営陣に味方する対抗買収者)も立たないし」
「ああ。トムソンあたり名乗りをあげてくると思ったんだが」
重役たちのおしゃべりの端で、ベネットが眠そうにコーヒーを飲んでいる。
サットンは消極的な策ばかり打っていたわけではない。
トムソン・テクノロジーズという家電メーカーがホワイトナイトの名乗りをあげる気配はたしかにあった。
トムソンはホームファックスや複合機などの分野で、カーディフ社と競合しており、過去に買収提案をもちかけたこともあった。
トムソンが現金をかき集め始めたのを見て、ベネットは阻止に乗り出した。彼特有のコネをつかい、急遽、トムソンのメインバンクに乗り込んだ。
マリウス・ベネットはバンカー出身である。バンカーの泣き所も知り抜いている。
トムソンのふところ具合、買収にかかるリスク、買収後のリスクをえんえんと説いて相手の気持ちを揺るがせ、さらに、
「カーディフの解体後は、ファックス部門をトムソンに優先的に売却する」
と申し出た。
このオファーに、大株主である銀行はころりと転んだ。トムソン経営陣にはストップがかけられ、サットンとトムソンの友情はあえなくほどけてしまった。
トムソンの芽を摘んでからは、ホワイトナイトを名乗り出る企業はない。
(衰退期の企業だ。足掻くほどの力もなかったか)
わたしは新聞から目を離し、司会に進行をうながした。
司会が口をあけかけた時だった。副社長のひとりが血相を変えて飛び込んできた。
「たいへんだ! イースタン・キャピタルがうちを買い出した」
会議室の人間はおどろき、その意味を知って顔色をうしなった。
(ヘッジか)
わたしは内心舌打ちした。
「いま2万6500株ほど買われています。発行済株式総数のうち、約0.5パーセントにあたります」
0.5パーセントでも50パーセントでも、彼らならいくらでも買える。
イースタン・キャピタルは伝説的なヘッジ・ファンドだ。国際的な大ディールの影にはいつもこのヘッジが暗躍し、いくつもの巨大企業を揉み潰してきた。
彼らがさらに、アルテミス株を買い増せば、わたしたちをクビにすることもできる。あきらかにアルテミス経営陣への圧力だった。
「サットンだな」
重役たちは暗い顔をした。
サットンは対抗買収ではなく、メガファンドの友だちを使って、直接こちらの喉首に手をかけてきた。やはり伊達にこの世界で長生きしていない。
「手を引けってことだ」
ベネットがわたしを見た。「どうします?」
会議室の全員が不安そうに見ていた。
「気にしない」
わたしは言った。「買付けを続ける。コケおどしにうろたえないでください。どうってことはありません。相手がメガファンドだろうと、この勝負はもう勝ったも同然ですから」
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