「いつまでも浮かれていないでください。みなさん。カーディフ買収はすでに過去です。われわれは次のステップに向かいます」
わたしは重役たちに微笑みかけた。
「北米進出です」
重役たちがおどろく。
「――クオーツを買収します」
彼らが息をつめるのがわかった。
「クオーツ・ワイヤレス、ですか」
クオーツ・ワイヤレスはアメリカのトップシェアを誇る携帯キャリアだった。
年商85億ドル。黒字の優良企業である。アルテミスがこれを得れば、総顧客数で世界携帯業界の7番目におどり出る。
「親会社PAは来年2月、クオーツを購入オークションにかける予定でいます。われわれはそれに参加します」
「二月――」
重役たちの顔に不安がよぎる。
莫大な資金が必要だった。たった今、でかい買い物をしたばかりである。しかも、その買い物には14億ポンドという赤字がついていた。
「ですから、カーディフの売却をすばやく片づける必要があります」
そう言いかけた時、会議室に遅れて入ってきた男があった。
「遅くなりました」
ベネットだった。
わたしはかまわず話をつづけた。
「カーディフ不要部分の売却益がおよそ35億ポンドになる予定ですから――」
「すみません」
入ってきたばかりのベネットが手をあげた。
「カーディフSATの売却は決定でしょうか」
わたしは眉をひそめた。なにをしようというのか。
「決定です」
「なぜです」
「カーディフSATはアメリカのケイロン社から納得のいくオファーをもらっています」
「宇宙事業をケイロン社に売却するのはまずくありませんか。あそこの親会社はアメリカの軍需ですよ」
(こいつ――)
わたしはひそかにたじろいだ。
ベネットの黒い目がひたとわたしを見つめていた。しずかな眼だったが、小さな火が燃えていた。
彼は温容をつくろって言った。
「宇宙技術が軍事に転用される危険をおもえば、カーディフSATを海外の企業に売却するのは国防上、よろしくないでしょう。国内の企業を選んだほうがいいのではないでしょうか」
(どこまで知ったんだろう)
ベネットと話さなければならなかった。だが、いまは重役たちが見ていた。彼らは何がはじまったのかわからず、きょとんとしてなりゆきを見ている。
わたしは声を抑えて言った。
「心配にはおよびません。カーディフSATの衛星事業は、気象観測衛星、熱帯雨林観測衛生など、平和利用の分野にかぎられています。ミサイルを搭載した軍事衛星などではありません」
「いや、観測衛星とスパイ衛星の区別はそれほどたいした差ではありません」
わたしはベネットに、もう黙れ、と目で制した。だが、彼は言った。
「ケイロンの親会社はペンタゴンに近い。いくらでしたっけ? 13.8億ポンド! このよすぎるオファーは、裏があると見るべきではないですか」
「ナンセンス」
「そうですか? カーディフSATが開発していたのは観測衛星だけではありません。フランスとの共同開発で――」
「携帯電話ももとは軍需品ですが、問題はありますか」
わたしはわざと不快をあらわした。ここで話すべき話ではない。
「カーディフSATにそれほどナーバスになるような軍事機密はありません。宇宙事業はたしかに最先端技術の集大成ですが、現在EUですすめられているガリレオ計画にしても、多くの国の企業が参画しています。EUだけではなく、中国、ロシア、アメリカの資本も参入している。現場はそれほどナーバスではないのです」
「しかし」
「さらに言えば、政府はこの取引になんの干渉もしていない、ということです。――次にいってよろしいですか」
「きみはいったい何を考えているんだ」
ふたりになると、ベネットはきびしく言った。
「カーディフSATは軍事衛星を作っていた。フランスと共同でだ。きみは知っていた。知っていて、カーディフを欲しがったんだ。アメリカに売るために」
「誤解だ」
わたしは彼の怒りに気づかぬふりをした。
「フランスと共同開発していたのは、観測衛星だよ。温室効果ガスの観測衛星だ。調査書を見てくれ」
「カーディフSATとピカール社は、共同でアメリカの電磁波攻撃に対する対抗技術を開発していた」
「電磁波攻撃なんかない。SFか? ばかばかしい」
ベネットは大きく息をついた。
「レスリー。もういい。もうごまかすのはよせ。おれにはわかってる。わかってるんだよ」
「なにが」
「きみはやつらの手先になったんだ。アメリカの、ダラス・グループの」
わたしはすぐに言葉を接げなかった。
この男をごまかし続けるのか、打ち明けて味方になってもらうのか迷ってしまった。
そのためらいが、白状してしまっていた。
「ベネット――」
わたしは言葉に窮した。
「そんなおおげさに考えないでくれ。彼らはカーディフSATを欲しがった。わたしに高値で買い取ると言った。それだけの話だ」
「わすれてるぞ。クオーツもくれると言ったんだろう?」
彼はわたしを見据えた。
「なにをやっているのか、わかっているのか、レスリー? これは軍事機密漏洩というだけの話じゃないんだ。共同開発者のフランスの怒りを買うことになる。アメリカのEU分断に手を貸すことになるんだ。国の安全を損ねてまで、金儲けをしたいのか」
なんと言ったものだろう。
理屈はいくらでもつけられる。だが、なにを言っても無駄だ。ベネットには通用しない。
「アメリカ市場がいるんだ」
「そんなことはわかっている」
「ほかに方法がない」
「そんなはずはないよ。べつに方法はある」
「いまのアメリカじゃ、このやり方しかないんだ。わからないのか。きみが」
わたしは訴えた。「あの国はかつてないほど保守的になっているんだ。味方以外がトップになることは許されない。ブラック・テレコムを見ろ。大金出して、サードを買ってなんの得があった。ブランド名さえ変えられなかった。アメリカ人はサードがイギリスのブラックだなんて知りゃしない! 次の購入オークションでも負けた。エシュロンだ。あの国で戦うなら、贈り物が必要なんだよ!」
ベネットは振り払うようにソファに座った。ソファにもたれ、うめきながら天井を見上げた。
「――サットンが言った」
彼はにがにがしげにつぶやいた。「きみはアメリカ市場を得るために、カーディフSATの軍事機密をアメリカ人に売る。きみは彼らに魂を売ったってな」
そんなことはないと思ったのに――、とうめいた。
わたしは友をにらんだ。
「おい、サットンと会ったのか」
「向こうが電話してきた」
(あの親父――)
わたしは敵の老獪さに歯軋りした。
「やつはきみをぼくから引き離すために、くだらんことを吹き込んだわけだ」
「そんなことはわかってる」
ベネットは首をもたげ、わたしを見た。「問題は、やつの言ったことが本当だったってことだ」
黒い目が哀しげに見ていた。
「レスリー。考え直してくれ」
やわらかい声だったが、研ぎ澄まされた刃のようだった。
彼は剣を抜いて、わたしの前に立ちふさがっていた。
「わかったよ」
わたしは彼の隣に腰を下ろした。その目に微笑みかけた。「そんな目で見ないでくれ。きみに軽蔑されるとつらい」
(餓えたことのないやつにはわからない)
わたしはベネットの正論に憤った。
ベネットは話のわかる男のはずだった。誰より裏の世界に通じていた。
わたしにヴィラ遊びを教えたのも彼だ。この世の中が、地下を流れる暗い潮流に沿って動いていることを、彼は誰よりも知っていた。
(だが結局は、中流の坊やだったということか)
イギリスはアメリカとEUの対立の浮力の上で浮いていた。
この国にはEUが勢力を増すと困るという事情があった。EUの中でイギリスは地理的に不利だ。EUに力をつけることは、フランスに力をつけることに他ならない。
この国がEUでドイツ、フランスと一線を画すには、アメリカの後ろ盾が必要だった。
だが、軍需産業にふりまわされるアメリカは次第に暴虐になり、世間では嫌米感がつのっている。与党もアメリカ支持を表明できない空気になっていた。
ばかげたことだ。
金を持っている連中を嫌ってどうする。金を嫌えば、金に支配されるのだ。
アルテミスがのしあがるには、アメリカ市場が必要だ。
アメリカの財布を握っている『彼ら』さえ味方につければ、今後、アメリカで、アジアでどれだけ有利に事業展開できるかわからない。
ベネットに理解させなければならなかった。さもなくば、彼を切らねばならない。
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