第3話

 犬だ。ほんもののワン公だ。

 食事の時、わたしは彼のふるまいに言葉をうしなった。
 犬は手をつかわなかった。皿のなかに鼻をつっこみ、毛むくじゃらのお仲間同様、吸い込むようにガツガツむさぼった。

「ライアン――じゃない。おまえ」

 犬はガハッとラビオリを吐き出し、はげしく咳き込んだ。だが、咳き込み、涙を流しながらも、また猛然と皿に顔をつっこむ。
 あまりのマナーに、わたしも気分が悪くなった。

「この手はなんだ」

 握っている手をつかみ、フォークを握らせる。
 だが、すぐにポロリと落としてしまう。四指で包ませても、フォークを支えられない。犬の指は房のように力なく、ものをつかむことができなかった。

(ちょっと待てよ、おい――)

 指が使えないとなると、えらいことである。食事の作法はともかく、ドアも開けられない。脱ぎ着もできない。さっきのように催しても、ファスナーが下ろせない。

 どうするのか。トイレのたびに、わたしが彼のペニスを引っ張り出してやるのか。

(ウソだろう?) 

 わたしは考えるのがイヤさにバーボンをあおって、寝てしまった。
 翌朝はもっとひどいことになっていた。リビングは惨憺たる有り様だった。

「はは」

 あまりの事態に、葉巻を一口吸うまで悪態もつけなかった。

 絨毯の上にはゲロが散らばり、強い酸臭をあげていた。大便のにおいもする。
汚物のまん中で犬が腹を押さえ、ヒイヒイ喘いでいた。夜中、吐いて下痢をしたらしい。犬のパンツと足は大便で汚れていた。

「油だろう」

 医者を呼ぶと、あっさり言った。

「油は問題ない。おれも食った」

「おまえさんは大丈夫だろうさ。――こいつは例の犬だろ」

 この医者は時々、グリーンウッド神父に頼まれて、わけありの人間を診ている。たいていの犬は保険がないため、しばらく医者にかかれないからだ。

「からだが飢餓同然のところに油ものを食べたら、ショック死することもある。しばらく油抜きで消化のいいものを食わせてやれ」

「どうしたらいい?」

 わたしは葉巻をふかし、ふてくされて聞いた。「いっそドッグフードなんてどうだ。犬用のビスケットとか。歯のためにゴムで出来た骨なんかどうかね」

 医者は解熱剤だ、と錠剤のシートを渡し、道具を仕舞いはじめた。

「リンゴがいいだろう。あれは消化にいい」

「リンゴなんざ手で持てない。オットセイみたいに鼻の上に乗せてやるしかないな」

 あの手は治る、と医者は教えた。

「骨はなんともない。筋肉が弱っているだけだ。おそらく反抗しないよう接着剤でも握らされたんだろう。動かさないと筋肉は簡単に痩せちまうんだよ。少しずつ動かすようにしていれば、じき治る」

「そう言ってやってくれ。おれの英語は通じない」

「根気よく教えることだな」

 医者はカバンを閉じ、立ち上がった。ふてているわたしを見下ろし、

「介護のことで質問があるなら、教えてやる。愚痴は聞かん」

「おれは病人の世話なんかしたことがない」

「そら、けっこうな身分だな」

「おれはハンターだ。おれが面倒見るのは間違ってる」

 じゃあ、泣け、と医者は言い捨てた。




 わたしの生活はあわただしいものになった。朝はオムツ替えにはじまり、犬用の食事づくり、掃除とランドリー室往復だ。

 犬のヒゲも剃ってやらねばならない。最初は放っておいたが、犬食いするため、食べもので顔がベタベタになってしまう。

 この犬食いには本当に滅入る。
 毎度毎度、死に物狂いで皿に挑みかかるのだ。

「ふッ、グホッ」

 あまりにあわてすぎて、食べものと呼吸を区別できないらしく、すぐに爆発するように咳き込む。テーブルもまわりの床も、吐き散らした食べものだらけになる。

 わたしは神経質な男ではない。仕事でホームレスに化けることもある。
 だが、虫だけはダメなのだ。不潔なダイニングにはアレが出る。この半生いくつもの危難をくぐりぬけてきたが、アレとの遭遇だけはいまだ耐えられない。
 かくして食後は、モップがけの作業にいそしむことになる。

 その後、今度はオムツ替え。
 葉巻の強い香りがなければこの作業は不可能だ。この犬はどうしたわけか、やたら下痢をするのだ。辛抱強かったのは初日だけで、我が家に来てからはドーナツよりも締まりがない。

「行くぞ」

 葉巻ごしに空気を肺いっぱい吸い込み、息をとめてパンツ型のオムツを脱がせる。ウエットティッシュで汚物を拭く。さっさと新しいオムツを穿かせなければならない。汚れ物をダストシュートに投げ入れ、ようやく息をつく。

 その後、彼の汚したタオルやTシャツを抱えて、ランドリー室へ向かう。部屋にいると、どことなく人糞臭いのだ。

(何日続くんだ。これが)

 ランドリー室にいると、同じ階の住人がじろじろ見ていく。あまりに入り浸っているのであやしんでいのだろう。あるいは、臭いのか。

(ファーザー。あんまりです)

 葉巻の煙に目をほそめ、わたしは神父のきれいな顔をおもった。
 この苦労をわかってやらせたのだろうか。だとしたら、許しがたい悪戯小僧だ。

 わたしはオムツとは無縁の男だった。ガンマンだ。血と硝煙の男だ。
 二年前まで、わたしの人生は荒っぽいが、平穏だった。仕事は賞金稼ぎ。金が尽きたら、賞金首を追うだけのきわめて自由な生活だ。

 狩に出れば獲物はかならず仕留めた。ハンサムな男の子は片端からわたしに恋をした。ノンケの子でさえ。
 マティーニこそないが、ジェームズ・ボンドみたいに優雅に暮らしていたのだ。

 そこに蛇が来た。
 グリーンウッド神父は仲間の葬式の司祭として現れた。
 わたしはあ然とした。坊主にこれだけの麗人がいようとは思わなかった。

 墓地から帰る折、わたしは用もないのに彼についていった。
 すると、彼は眩暈をおこした。失礼、と言ってわたしの肩に手をかけた。

 腕に抱えたからだが、手のひらの雪のように軽かった。ローマンカラーの首筋はなめらかで、辛気臭い説教の容れ物にしては、あまりに透きとおっていた。
 ありがとう、といって、翡翠の双眸が見上げた時、わたしはその妖美に声をうしなった。わき腹がふるえていた。

(あれが罠だ)

「あの悪魔の坊主に会うまではうまくやってたんだ」

 わたしはバーで愚痴った。

「あの眩暈は絶対、わざとだ。あれだけをエサに二年、小僧みたいに使いやがった」

 聞いてるのか、とふりかえると、友人はテーブルに身を伏せ、ヒクヒクふるえている。

「可笑しいか。親友」

「お、可笑しい」

 アフリカ系の友人はヒイヒイ涙を流し、手を叩いて笑った。拳固で小突いたが、笑いやまない。あげく、

「みんな、聞いてくれ。ラロが若い男の子のオシメを替えているんだとよ」

 バーの商売仲間たちがざわめく。

「ラロが」

「オシメだと?」

 スカトロか、と早とちりがいたましげに首をふる。

「いっちまったな、おまえも」

「呪われた野郎だ。ホモの上に変態とあっちゃもう――」

 介護の話だとわめいても、聞かない。
 ストレスだぜ、そりゃ、とほかの愚か者が言う。「解放を求めているのよ。戦いに疲れた魂が」

「そうそう。マッチョに多いんだ。ワトソンのやつもシャツの下にゃブラしてたって話だ」

「キヒヒヒ、あいつにとっつかまった連中は泣けるな」

「おれは奴が死んだ時、棺桶のなかでもしてるかどうか見ようとしたんだが、えらい怒られてよ」

「ラロ、それムショの連中に話してもいいか」

 バカばっかりがそろっている。わたしの商売仲間は犯罪者のパンチを喰らいすぎていて、人生相談には向かない。
 わたしはせつなくグラスを傾けた。バーテンまでが言った。

「紙オムツはもみほぐして使うと肌にやさしいそうですよ」

 グリーンウッド神父はこの不名誉をわかっているだろうか。
 犬が来て一週間。
 神父は何も言って来ない。中国人との戦いに夢中で、犬を押しつけたことなど忘れている。わたしがクソ臭くなってモテなくなっても、知ったこっちゃないのだ。

 憮然と飲んでいると、友人が笑い疲れて席に戻ってきた。

「その赤ちゃんはハンサムなんだろ」

「骨と皮だ」

「ハンサムだったんだよ。元気になったら可愛くなるぜ。神父さんから乗り換えたらどうだ」

 友人はゲイではない。ノンケの人間らしくおおざっぱに、ホモは男ならなんでもいいと思っている。

「預かりもんだ。バカ」

「いつか返すんだろ」

 黒い目が笑っている。「その後ってのがあるじゃねえか。いつか元気になった時に、親切に世話してくれたあのお髭の紳士が忘れられないって、ほれ、ナース症候群ってやつよ」

 滅入りそうになる。

「ナイチンゲール症候群だ。そういうんじゃないんだ。もう黙ってくれ」

「そうか」

 友人はまた、身をのけぞらせてケタケタ笑った。少し酔っている。

「なんでもいいじゃねえか。神父さんよりよっぽど見込みあるぜ」

 答える気力もなかった。

 犬は家ですくんでいる。
 日がなソファの隅で膝をかかえ、テレビを見ている。テレビがついてなくても問題ない。ぼんやりと時間が流れていくのを眺めているだけだ。

 笑わない。泣きもしない。
 こちらが近寄ると、すっとからだが警戒したが、反抗はしない。
 それだけの置物だ。

「いつか可愛くなんだよ、それが」

 友人はまだ言っていた。

「待つこった。待てば海路の日よりあり。――でも今、淫行はダメだぜ。障害者虐待だからな」

 ハーブ、とわたしはたまりかねて唸った。

「あのクソまみれのケツ見てそんな気がおきるか」

 翌日、クソまみれのケツの不気味な変化に気づいた。



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