第8話 |
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わたしはジョーディにトイレの躾をはじめた。 「まだかい」 バスタブの縁に腰掛け、新聞を読みながら、犬が小便をするのを待つ。 ジョーディは便器には座ったが、何するものか忘れ果てているらしい。考える人の彫像以上のことはしようとしない。 だが、そのまま三時間も過ぎた頃、ようやくチョロチョロと水音をさせた。 「グッドボーイ」 わたしは葉巻を咥え、ズボンをあげてやった。 根気のいる作業だが、いずれトイレの用途を理解するだろう。 散歩にも連れ出した。公園をぐるりとまわるだけだ。 ジョーディは何も見ていない。うつむき、ただわたしから遅れないようにとぼとぼついてきた。 あまり楽しくはなさそうだが、健康のためにはやむを得ない。 このことは別の効果をもたらした。 「あの方、ご親戚でしたの?」 ランドリー室でよく会う同じ階の奥さんが、おずおずと話しかけてきた。 「いえ。友人に頼まれて預かっているんです。施設もどこもいっぱいで」 まあ、そう、と彼女は同情した。 翌日には手作りの惣菜を届けてくれ、 「できることがあったら言ってね。病人の介護はストレスがたまるから、遠慮なく助けを求めるといいのよ」 年上の婦人らしく、鷹揚にヘルプを申し出てくれた。 ジョーディのズボンに輪っかを縫い付けてくれたのはこの女性だ。 トイレ・トレーニングのためにズボンにふたつの輪ッかをつけたらよかろうと思ったのだ。指に力はないが、手首はきちんと動くのだから、輪に手首をかければ自分で上げ下げができる。 その一方で、わたしは彼の指をマッサージした。 「ジョーディ。この指は動くんだ。なんの故障もないんだぜ。その気になればこの指一本で体重が支えられる。岩山にも攀じ登れる。板を突き抜け、とまでは言わんがな」 マッサージしながら、意味のないことを話しかけている。このところ、わたしは独り言が多い。 ジョーディはうわの空といった顔をしていたが、黙ってやる時よりはリラックスしているようだ。 「ふとったな」 医者は様子を見に来て、はじめて褒めた。 「ずいぶん顔色がよくなった。こぎれいにしてるじゃないか」 「もうひとりでオシッコができる」 わたしは煙に目をほそめ、自慢した。「オムツもほとんど汚さなくなった。それから――」 ジョーディ、と呼んで、小さいぬいぐるみをなげてやる。ジョーディはぱっとそれを両手ではさんだ。 医者はおどろいた。 「スゴイじゃないか!」 わたしは、彼の手を見て、と笑った。 「まだよわいが開くと握る、ができる。五本バラバラにというわけにはいかないんだが」 この人形をくれたのも、例の婦人だ。人形なんか、とおもったが、やわらかい、つかみやすい塊はトレーニングに役立った。 「見直したよ」 医者はわたしの努力を評価してくれた。 「はじめは、いい年して西部劇ごっこしている愚かなチンピラかとおもっていたが、もう少しマシなチンピラだったんだな」 わたしは葉巻を掲げ、会釈して応じた。 医者は言った。 「これなら、施設に入っても十分やっていける」 彼はジョーディの手を調べながら、 「トイレの手間があるとないとじゃ、職員の苦労も全然違うからな。ひどいとこじゃ寝たきりにされちまう」 わたしは医者を見つめた。 「施設にいれるのか」 「そうなるだろう」 医者は言った。 「この子の家族は見つからないんだろう? 引き取り手がない以上、施設に預けるほかない。外に放り出したら死んじまうからな」 「親の親もいないのか。誰もいないってことはないだろう」 「さあな。いずれにせよ、捜索願いを出す親戚はいないようだ」 医者は帰った。 わたしはなぜだか、あてがはずれたような気分になった。 ジョーディに親戚はいないのだろうか。 医者が帰った後、グリーンウッド神父から電話があった。 『ライアンを解放したよ』 神父はホッとしたように報せた。 『彼はジョーディほどひどい扱いを受けてなかった。からだも健康だ。明日、連れて帰る』 「金は」 『ゼロだ。あたりまえだろう』 さすが、である。 「後学までに教えてください。どうやったんですか」 『わたしが教えを説き、彼が改心した』 「またまた」 『……ほかにもちょっと応援を頼んだ』 神父には有力者の友人が多い。説得に応じるよう口添えを頼んだのかもしれない。 なんにせよ、彼の長年の活動があればこそのコネだ。わたしは神父の苦労をねぎらった。 「それで、ジョーディのことなんですが」 『ああ、あの子の受け入れ先も見つけたよ。ニュージャージーにある評判のいい療養施設だ』 わたしは息をつめた。 「施設、なんですか」 『ああ』 神父は、しかたないんだ、と言った。 『引き取り手はない。――ちょっと複雑な家なんだよ。現代家庭らしく』 ジョーディの父親は彼が小さい時、家を出ていった。母親はべつの男と再婚した後、亡くなった。別の男――義理の父親が残っていたが、これは詐欺か何かで、いま刑務所に入っているという。 「ほかに、じいさんばあさんがいないんですか」 『家出した父親の両親は存命だが、彼らも施設に入っている』 神父は帰ってからまた相談しよう、と言った。 わたしは電話を切り、ダイニングのほうを見た。 ジョーディはわたしを見ていた。アイスブルーの目がひたと見つめている。 話がわかったのだろうか。 「どうした」 ジョーディはこぶしを掲げてみせた。親指とひとさし指の間にピーナツの殻がはさまっていた。 「掴めたのか!」 わたしは立ち上がった。 「グッジョブ! 素晴らしい!」 やっと指先に力を入れることが出来たのだ。わたしは声をたてて笑った。ジョーディの頭を抱え、やわらかい髪をかきまわしてもみくちゃにする。 「いい子だ。来週あたりロッククライミングもできるようになるぞ!」 シャンプーしたばかりの髪がやわらかく匂った。頭が哀れなほどあたたかい。 なぜ、腹立たしい感じがするのだろう。 施設に入ったら、誰かこうしてキスしてくれる人間はいるだろうか。 |
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