第10話


 ガラス張りのテラスにマイアミの強い陽が跳ねている。

 クロフォードは無意識にワイシャツの襟をゆるめた。冷房は効いていたが、ふたりのボディガードが彼の後ろに立ち、息苦しい。

 ガラス越しに庭のプールが見える。ふたりの男が素裸になり、水の中でじゃれあっていた。

 ――また、ちがう子だな。

 三ヶ月前に見た時とは違う青年のようだった。ドン・ニコラはまたペットを変えたらしい。

 待つこと二十分。裸の男たちは滴をしたたらせてテラスに入ってきた。

「おやおやおやおや」

 背の高い中年男が機嫌のよい声を出した。

「お帰り。子猫ちゃん」

 召使がバスローブを差し出す。男は広い肩にそれを羽織ると、アジア風の長椅子にどかりと腰をおろした。開いた足の間に大きな陰嚢とペニスがゆったりと座った。

「フロリダの牢獄へようこそ。歓迎する」

 日に灼けた顔から、アイスブルーの双眸が閃く。

 クロフォードは胃の底がちりちりと焦げつくのを感じた。
 ドン・ニコラ・カステリーニはウォール街を闊歩する才覚あるビジネスマンに見える。ハンサムで愛想がよく、きれいな歯をしていた。どこにも暴力組織の首領の凄みはない。

 だが、この若々しいエグゼクティブは悪魔的な彼の支配者だった。小麦色の皮膚の下は、どこまでもねじれ、どす黒い。

「そんなところにつったってないでおいで。挨拶ぐらいするもんだ」

「ごきげんよう」

 クロフォードは動かず陰気に言った。主人はにやりと白い歯を見せた。

「こいつがいるからやきもちを焼いているのか」

 主人の足元には青年が行儀よくうずくまっていた。グリーンの切れ長の目で、けわしくクロフォードを牽制している。

「いいえ」

「そうだな。おまえはおれを愛さない。どれだけかわいがっても、おれの下であくびをしている。犬のくせに生意気なやつだ」

「あなたが嘘つきだからだ」

 クロフォードは興味うすに言った。「もう三回も約束を反古にされた。愛想もつきる」

「おまえを解放してやったら、おれを愛したとでも言うのか。中国人の商人を信じたほうがまだマシだね」

 クロフォードははや主人との言葉遊びに飽いた。言葉は何も解決しない。
 言いたいことは三ヶ月前すべて言った。いたぶられて泣きながら。

「ドン・カステリーニ。野外奴隷として稼がせるつもりもない、別にかわいいペットもいる。なら、わたしをヴィラに売り戻したらいかがです。そのほうがよほどたがいの時間の節約になる」

「なぜ、時間の節約をしなければならないんだ?」

 主人はクロフォードを呼んだ。
 黙っていると、背後のボディガードが動く。クロフォードはしかたなく主人の前に立った。

「おいで」

 膝をしめして、主人が指で招く。その足元では青年が蒼い顔をして睨んでいる。

「ノー」

 クロフォードは言った。
 ドン・ニコラがアイスブルーの眼をあげる。クロフォードはその眼を見返した。

(大口の取引だ――)

 彼は腹がふるえそうになるのを押さえた。
 ゲームをはじめなければならない。
 ドン・ニコラは温容にかくして猜疑の刃を研いでいる。ファビオのことを聞かれるはずだ。気の迷いだと言っても通用しない。

 主人の信用を得る必要があった。ここから出るには主人の絶対の信用が要る。

「もう限界だ。ミスター・カステリーニ」

 クロフォードは言った。「わたしは耐えられない。殺すか、解放するかどっちかにしてくれ」

「どうした。思いつめて」

 主人の声は明るい。だが、眼はからみつくように彼の思惑をはかっている。

「このままおとなしく従っていても、わたしには何も与えられないことがわかっただけだ。あなたは空手形ばかりよこす。その度に、腹をたてるのはうんざりだ。もうよそう。今すぐ解放するか、殺すかしてくれ」

「おまえの値段は1億2000万ドル」主人は眉をあげた。「おまえはおれの所有物だろ」

「わたしはヴィラに自分を売り渡した覚えはない。その取引は無効だ」

 クロフォードはあえて言った。

「あなたは信用ならない。あなたとは二度と寝たくない」

 石のように表情を殺して、主人を見返す。
 主人は面食らったような顔をつくって、裸の青年と眼を見交わした。妙な手品でも見たような顔をしていた。

 だが、クロフォードは頬に主人の怒気を感じた。ざわざわと体内が粟立つ。

「よかろう」

 ドン・ニコラは身を起こした。ボディガードを呼ぶ。

「カルロ、銃を」

 ボディガードが大股で歩み寄る。脇のホルスターから拳銃を抜いてボスに渡した。

 ドン・ニコラはきれいな長い指でその銃をもてあそんだ。

「子猫ちゃん。本当に死にたいのか」

 クロフォードは否定しなかった。

 ――本当に撃つかもしれない。

 さすがに汗が吹き出てくる。主人は人の苦しむ顔がなにより好きな男だった。心臓を撃ち抜かれずとも足ぐらい撃つかもしれぬ。

 その指が引き金にかかった。

「では、処刑だ」

 クロフォードは目をとじた。心臓がおそろしいほど揺れていた。足がふらつきそうになる。

 轟音がはぜた。つづけて数発。

 クロフォードは息をこらえて立っていた。どこにも痛みはない。

「……ッ」

 ごとり、と音がして、足元で何かがくずれた。
 目を開くと、裸の若者が血まみれになって倒れ伏していた。うすく開いたグリーンの眼は光をうしなっている。

「かわいそうに!」

 ドン・ニコラはけたたましい笑い声をあげた。

「おまえのわがままのせいで殺されてしまった! まだ19歳なのに! おまえのせいで!」

 クロフォードはよろけた。声は出なかった。銃声と目の前の光景につらぬかれて白く麻痺してしまった。

 足元に死があった。先までプールではしゃいでいた若者が動かぬ死骸になりはてている。

「フランシス」

 主人がまろやかな声をかけた。「足にキスを」

 クロフォードは硬直して魔物を見つめた。だが、腰の力が抜けていた。彼の膝は勝手に折れ曲がり、床に吸い込まれた。

 目の前にまだ水滴を残した足がある。殺人者の足だ。だが、彼の体はふらふらと屈み、そこに唇をつけた。

「おまえは自分を過少評価しているよ」

 主人が満足げに身をおこす。手が彼の髪をもてあそんだ。

「おまえが死ぬといえば、おれはかなしい。驚天動地の大騒ぎだ。おまえはおれのかわいいペットなんだ。簡単に死にたいなぞというな。いや、いいさ! 言え! またヴィラから小僧を買ってくる。いくらでも撃ち殺してやる」

 わかったな、とむしるように髪をつかむ。
 クロフォードはその足の上で痙攣するようにあえいでいた。




 支配者が上にのっていた。
 ぬめった唇がしつこく乳首を吸っている。数本の指が彼の体内で暴れていた。乱暴な刺激が熱の波紋となって性器にとどく。

(う……)

 クロフォードは眉をしかめて、性器の昂ぶりに耐えていた。
 局部は熱く脈動したが、吐き気がやまない。わめいて跳ね除けたかった。だが、腕はわらのように力が入らない。

 昼間の出来事は、彼の意思を根こそぎかっさらってしまった。人殺しを目の当たりにしたのははじめてだった。動物的な恐怖に蹂躙され、主人の眼を見ることさえできない。

「くっ――」

 クロフォードはたまらず、男の頭をどけた。ベッドから降りかけた時、咽喉から胃液がせりあがり、あふれた。
 苦いものが咽喉を灼く。指の間から、胃液があふれた。ぼたぼたと床に落ちて水溜りをつくる。

「どうしたどうした」

 ドン・ニコラは身をおこし、彼の傍らに立った。
 クロフォードは胃が跳ねるままに水を吐き、あえいだ。無様だと思ったがどうしようもなかった。

「ほら」

 咳き込む傍から、主人が水の入ったグラスを差し出す。クロフォードは苦い胃液を口から洗い流した。
 主人はクスクス笑い、シーツで無造作に彼の顔をぬぐった。

「ばかだな」

 彼はいきなり口づけてきた。クロフォードはベッドに背を押し付けられ、身をこわばらせた。声なき悲鳴が体をかけあがる。
 主人の手は鷲爪のように彼をおさえていた。酸で汚れた口の中をぬるい舌がわがもの顔で動き回る。

(うろたえるな――)

 クロフォードはうわずる心を叱った。
 わざとドンを挑発した。
 挑発し、対決し、折れてみせる。クロフォードは折れ、ひれ伏した。

 だが、予定とはあまりに違った。腕の一本や二本折られることは覚悟していたが、第三者の死などのぞんでいなかった。

「!」

 主人の強い指が腰をつかんだ。クロフォードは怪物につかまれたようにおもった。体がレンガのように硬くこわばる。

(――なんでもない。こんなことなんでもない)

 だが、主人の手に従って動くことができない。体を開くことができなかった。
 主人は勝手に彼をベッドにひきずりあげて、押し倒した。その体重がのしかかった時、クロフォードは思わず細い悲鳴をあげた。

「やめてくれ……」

 なぜ、と主人がうすく笑う。

「おれたちは古なじみだろう? 今さらなんだ」

「今日は――、今は――」

 ひじで防いでいた。体がふるえてしかたがない。
 だが、ドン・ニコラはかまわず、彼の体を開いた。無理やり股関節をこじあける。

「いやだ。本当に!」

 だが、主人は火のくさびを打ち込んできた。
 クロフォードは声を出せなかった。体が裂かれ、咽喉元まで死に犯されたように感じた。

「こわがることはないんだ、おまえは」

 ドン・ニコラは笑いながら、体を打ちつけた。

「おまえを殺しやしない! 大事なペットだ! せいぜいかわいがってやるさ。あの犬はな。安いんだ!」

 力強い侵略に体が火花を散らす。苦痛と快楽がいやおうなく骨を揺るがしていく。だが、男のからだから発せられる瘴気が冷たい。
 
 クロフォードは男の眼を近づけまいと夢中でその肩を押さえた。棘のような吐息から顔を必死にそむけた。
 からだが濁流に飲まれ、流される。快楽が脳髄を、筋肉をむしりとっていく。 その様を死神の青い眼が爛々と見下ろしていた。
 クロフォードは悲鳴をあげて、抗った。




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