(どうする気だ。おれが、男を抱くのか? 自分のボスを?)
ホテルの廊下を歩き、ファビオはうろたえた。
クロフォードがすぐ後ろに従っている。ファビオが命じるまま、ホテルに車を入れ、のこのことついてきた。
(どうしよう。男なんて――抱いたことない)
動揺を隠して部屋に入る。だが、キングサイズのベッドが目に入った時、ファビオはぼう然とした。
(何やってんだ、おれ!)
逃げようとするものを追っていたら、ここまで来てしまった。
なぜか、この男を自分の手で捕まえてみたかった。
カフェテラスで、クロフォードに軽くあしらわれた日、ファビオはショックを受けた。クロフォードの冷え冷えとした落ち着きが不思議だった。作戦なのか、諦念なのか。あの手ごたえのうつろさはどうしたことなのか。
(あの男は何を考えているんだろう)
毎日、知らず、57階のプレジデントのことを考えていた。ヴィラ・カプリのことを調べていた。
友人は「UFO話として聞け」、本気にするな、人にも言うな、と忠告した上で、その人身売買組織のことを教えてくれた。
見目よい男たちが誘拐され、男娼として飼われている町がある。一部の男たちは、客に買い請けられ、その後の生涯を家で愛玩されて生きる。一部は外に放たれるが、主人の意向でその時々、呼び出されるという。
クレアから聞いた話を照合すれば、美男のクロフォードがその禍にあったことは容易に想像できた。
だが、自分が何をしようとしているかは、いまだわからない。
「やはりよそう」
そう言ったのはクロフォードだった。
「からかってすまなかった。こんなことすべきじゃない」
ファビオの傍らを過ぎて出ていこうとする。
「だめだ」
反射的にファビオはその腕をつかみ、引き寄せた。壁に押し付ける。
灰色の目がたじろいだ。
ファビオは口づけた。
クロフォードがきらって顔をそむける。ファビオは顔をおしつけ、その唇を追った。
脳の中はいまだあわてている。足が地につかない。だが、猫が動くものを追うようにからだが動く。その繊細な唇を追い、舌を求める。
腕に抱くと、奇妙な違和感があった。クレアのとろけてしまうしなやかな体とは違う。
繊細な作りだったが、男の骨格だった。腕に逆らう。筋肉の質もファビオを阻んで硬い。
だが、ファビオはその違和感にふしぎな興奮を覚えた。手ごたえがあった。抗うものを押さえつけ、征服したいという昂ぶりにかられる。
上着を脱がせ、クロフォードをベッドに押し倒していた。ネクタイを引き抜き、あわただしくワイシャツを開いていく。
見たかった。同じ男の体のはずだ。不思議なものがあるわけがない。
ベルトを外し、ファビオは目を瞠いて見つめた。
均整のとれた男の裸体。うっすらと金色の毛で覆われた胸。なめらかな腹の下には、ふつうの男のペニスが鎮まっている。
どうということはない。ゲイ雑誌のモデルのような派手な肉体ではない。
だが、ファビオは鳥肌をたてていた。
奇怪ななまめかしさがあった。
そのからだは、どこかこわれやすさをにおわせた。顎の線、首筋の線が透きとおっている。それでいて、小さな乳首は淫らに息づき、愛撫を欲して震えているようにも見えた。
ファビオは生唾を飲んだ。
――楽器だ。
この肉体は、たとえようもなく美しい音を出す楽器だ。官能の弦だ。響けば、全身の骨が震撼するだろう。
(!)
灰色の目が彼を見ていた。嗤うような、疲れたような、温度の低い目だった。
ファビオは猛然と血を滾らせた。我知らず、吠え、掴みかかっていた。
「間抜けな恐喝屋もあったものね」
頬に冷たいガラス瓶が触れる。ファビオはビクリと黒いモニターから身を離した。バドワイザーのボトルを受け取る。
クレアは傍らに膝をつくと、モニターの画像を停めた。
「データを壊しちゃうなんて――やる気あるの?」
「おれが壊したんじゃない。ウイルスだって」
ファビオは交渉の不成立を、正直にクレアに言わなかった。チップは紛失、保存したデータはウイルスにやられて再生できなくなったと、下手な嘘をついた。
この企みをあきらめよう、と言えずにいた。
クロフォードを脅すのは無理だ。あの男には交渉できない。なにより、ファビオは彼に二度と近づきたくなかった。
あの晩、ファビオは強烈な快楽を得た。はじめて抱く男の体に狂い、何度も達した。麻薬に酔ったように舞い上がっていた。
翌日、彼は狼狽した。
――おお、おれが男を抱くなんて。
ゲイ専門をあらわす虹の旗が頭をよぎる。その旗のもとで髭面を寄せ合う不気味な人種。
(おれはちがう! どうかしてた)
自分でもあの日の行動がよくわからない。吸い寄せられるように、進んでしまっていた。まったく、罠にでも嵌ったようだ。
「なんでこんな男がいいのかしらね」
クレアはポテトチップをくわえ、写真を一枚とった。
「若くもないし――全然ゲイっぽくない」
「まったくだ」
ファビオはビールをあおった。
だが、彼はひそかに青ざめていた。
(あれは――男にしかわからない)
クロフォードは男の嗅覚にだけ訴える色気を持っていた。
なんの変哲もない肢体には秘密があった。男が手を触れずにいられない、こわれやすさと冷かな拒絶。
ファビオは何度もクロフォードを襲った。クロフォードが無表情を崩し、なやましく眉をしかめるとひどく興奮した。
――もっと、狂わせたい。おれに――!
ゼリーのようにふるわせ、気が狂うほどよがらせてやりたい。
だが、どれほど乱れようと、クロフォードが鉄の扉に隠れている気がしてならなかった。
傷ひとつない肌には見えない男たちの無数の愛撫の痕があり、攻撃の痕があった。多くの男たちが彼の秘密を暴こうとして爪をかけ、むなしく敗れ去っている。
その墓標がまた征服欲をかきたてる。
「あたし、今度、雑誌のライターと会うのよ」
クレアは写真をひらひらと振った。「こいつを見せてみようかな」
「なんの雑誌?」
「ファッション雑誌だけど――ライターなら、どっかとつながってるでしょ」
「お嬢ちゃん」
ファビオは恋人の腰に手をまわし、自分の膝に乗せた。片手をTシャツの中
にさしいれながら、
「安売りしてどうする。雑誌社の経費でフロリダには行けないぜ」
「でも、ちょっとした有名人になれるかもよ」
Tシャツの下で乳房をつかむと、クレアは笑った。
白い歯が美しい。きれいな娘だ。若く、健康的で、うまみもある。金に執着しすぎるところをのぞけば、夢の女だ。
「あわてなさんな」
ファビオは女の唇についた塩をなめとりながら、ソファの上にゆっくりと押し倒した。
「来年にはフロリダだ。冷えたシャンパン。ロールスロイス。お抱えの運転手。お抱えのジェット機――それともハワイがいいか?」
「フロリダよ。絶対」
やわらかな、かたちのよい乳房を愛撫すると、クレアはうっとりとため息をついた。
ファビオはにがにがしく思った。
なぜ、やめると言わないのか。
なぜ、完璧に思い切らないのか。
「お――」
ファビオはエントランスホールに入ってきた背の高い男に目をとめた。
ライオンでも入ってきたかのようにホールが鎮まった。
映画スターだろうか。高級スーツをむぞうさに着崩し、シャツをはだけて日焼けした肌を見せている。陽気さとエネルギーが匂いたつようだった。
黒い火のような目をして、面白がるようにゆっくり歩いてくる。
「マフィアのドンか」
ファビオの傍らで同僚も同じく目を奪われていた。
受付嬢の前に出ると、男は唇にだらしのない微笑を刻んだ。
「ミケーレ・ブレガ。2時にミスター・クロフォードとアポイントがある」
受付嬢は硬い声で、お待ちください、と告げ、確認をとった。
「ミスター・ブレガ。どうぞ。奥のエレベーターから57階へおあがりください」
「ありがとう」
男はひょいと受付嬢の手をとった。その手の甲に口づけ、
「きみの仕事にはスマイルも含まれていると思うよ」
となじった。
受付嬢は赤くなって微笑った。
「もうしわけありません」
「スマイル。セクシーな唇だ」
男がエレベーターに消えると、ようやくホールが我にかえった。
その場にいた全員が、ひとりの男の挙動を見守っていた。
「いやらしいなあ! イタリアは」
同僚はかぶりを振った。「毎日ピザ食ってると、あんなになるのか」
ファビオは答えなかった。
2時からの客だ。クロフォードを抱きにきた男だった。
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