第2話


(どうする気だ。おれが、男を抱くのか? 自分のボスを?)

 ホテルの廊下を歩き、ファビオはうろたえた。
 クロフォードがすぐ後ろに従っている。ファビオが命じるまま、ホテルに車を入れ、のこのことついてきた。

(どうしよう。男なんて――抱いたことない)

 動揺を隠して部屋に入る。だが、キングサイズのベッドが目に入った時、ファビオはぼう然とした。

(何やってんだ、おれ!)

 逃げようとするものを追っていたら、ここまで来てしまった。

 なぜか、この男を自分の手で捕まえてみたかった。

 カフェテラスで、クロフォードに軽くあしらわれた日、ファビオはショックを受けた。クロフォードの冷え冷えとした落ち着きが不思議だった。作戦なのか、諦念なのか。あの手ごたえのうつろさはどうしたことなのか。

(あの男は何を考えているんだろう)

 毎日、知らず、57階のプレジデントのことを考えていた。ヴィラ・カプリのことを調べていた。

 友人は「UFO話として聞け」、本気にするな、人にも言うな、と忠告した上で、その人身売買組織のことを教えてくれた。

 見目よい男たちが誘拐され、男娼として飼われている町がある。一部の男たちは、客に買い請けられ、その後の生涯を家で愛玩されて生きる。一部は外に放たれるが、主人の意向でその時々、呼び出されるという。

 クレアから聞いた話を照合すれば、美男のクロフォードがその禍にあったことは容易に想像できた。

 だが、自分が何をしようとしているかは、いまだわからない。

「やはりよそう」

 そう言ったのはクロフォードだった。

「からかってすまなかった。こんなことすべきじゃない」

 ファビオの傍らを過ぎて出ていこうとする。

「だめだ」

 反射的にファビオはその腕をつかみ、引き寄せた。壁に押し付ける。
 灰色の目がたじろいだ。

 ファビオは口づけた。
 クロフォードがきらって顔をそむける。ファビオは顔をおしつけ、その唇を追った。

 脳の中はいまだあわてている。足が地につかない。だが、猫が動くものを追うようにからだが動く。その繊細な唇を追い、舌を求める。

 腕に抱くと、奇妙な違和感があった。クレアのとろけてしまうしなやかな体とは違う。

 繊細な作りだったが、男の骨格だった。腕に逆らう。筋肉の質もファビオを阻んで硬い。

 だが、ファビオはその違和感にふしぎな興奮を覚えた。手ごたえがあった。抗うものを押さえつけ、征服したいという昂ぶりにかられる。

 上着を脱がせ、クロフォードをベッドに押し倒していた。ネクタイを引き抜き、あわただしくワイシャツを開いていく。

 見たかった。同じ男の体のはずだ。不思議なものがあるわけがない。

 ベルトを外し、ファビオは目を瞠いて見つめた。

 均整のとれた男の裸体。うっすらと金色の毛で覆われた胸。なめらかな腹の下には、ふつうの男のペニスが鎮まっている。

 どうということはない。ゲイ雑誌のモデルのような派手な肉体ではない。

 だが、ファビオは鳥肌をたてていた。

 奇怪ななまめかしさがあった。
 そのからだは、どこかこわれやすさをにおわせた。顎の線、首筋の線が透きとおっている。それでいて、小さな乳首は淫らに息づき、愛撫を欲して震えているようにも見えた。

 ファビオは生唾を飲んだ。

 ――楽器だ。

 この肉体は、たとえようもなく美しい音を出す楽器だ。官能の弦だ。響けば、全身の骨が震撼するだろう。

(!)

 灰色の目が彼を見ていた。嗤うような、疲れたような、温度の低い目だった。

 ファビオは猛然と血を滾らせた。我知らず、吠え、掴みかかっていた。




「間抜けな恐喝屋もあったものね」

 頬に冷たいガラス瓶が触れる。ファビオはビクリと黒いモニターから身を離した。バドワイザーのボトルを受け取る。

 クレアは傍らに膝をつくと、モニターの画像を停めた。

「データを壊しちゃうなんて――やる気あるの?」

「おれが壊したんじゃない。ウイルスだって」

 ファビオは交渉の不成立を、正直にクレアに言わなかった。チップは紛失、保存したデータはウイルスにやられて再生できなくなったと、下手な嘘をついた。

 この企みをあきらめよう、と言えずにいた。
 クロフォードを脅すのは無理だ。あの男には交渉できない。なにより、ファビオは彼に二度と近づきたくなかった。

 あの晩、ファビオは強烈な快楽を得た。はじめて抱く男の体に狂い、何度も達した。麻薬に酔ったように舞い上がっていた。

 翌日、彼は狼狽した。

 ――おお、おれが男を抱くなんて。

 ゲイ専門をあらわす虹の旗が頭をよぎる。その旗のもとで髭面を寄せ合う不気味な人種。

(おれはちがう! どうかしてた)

 自分でもあの日の行動がよくわからない。吸い寄せられるように、進んでしまっていた。まったく、罠にでも嵌ったようだ。

「なんでこんな男がいいのかしらね」

 クレアはポテトチップをくわえ、写真を一枚とった。

「若くもないし――全然ゲイっぽくない」

「まったくだ」

 ファビオはビールをあおった。

 だが、彼はひそかに青ざめていた。

(あれは――男にしかわからない)

 クロフォードは男の嗅覚にだけ訴える色気を持っていた。
 なんの変哲もない肢体には秘密があった。男が手を触れずにいられない、こわれやすさと冷かな拒絶。

 ファビオは何度もクロフォードを襲った。クロフォードが無表情を崩し、なやましく眉をしかめるとひどく興奮した。

 ――もっと、狂わせたい。おれに――!

 ゼリーのようにふるわせ、気が狂うほどよがらせてやりたい。

 だが、どれほど乱れようと、クロフォードが鉄の扉に隠れている気がしてならなかった。
 傷ひとつない肌には見えない男たちの無数の愛撫の痕があり、攻撃の痕があった。多くの男たちが彼の秘密を暴こうとして爪をかけ、むなしく敗れ去っている。

 その墓標がまた征服欲をかきたてる。

「あたし、今度、雑誌のライターと会うのよ」

 クレアは写真をひらひらと振った。「こいつを見せてみようかな」

「なんの雑誌?」

「ファッション雑誌だけど――ライターなら、どっかとつながってるでしょ」

「お嬢ちゃん」

 ファビオは恋人の腰に手をまわし、自分の膝に乗せた。片手をTシャツの中
にさしいれながら、

「安売りしてどうする。雑誌社の経費でフロリダには行けないぜ」

「でも、ちょっとした有名人になれるかもよ」

 Tシャツの下で乳房をつかむと、クレアは笑った。
 白い歯が美しい。きれいな娘だ。若く、健康的で、うまみもある。金に執着しすぎるところをのぞけば、夢の女だ。

「あわてなさんな」

 ファビオは女の唇についた塩をなめとりながら、ソファの上にゆっくりと押し倒した。

「来年にはフロリダだ。冷えたシャンパン。ロールスロイス。お抱えの運転手。お抱えのジェット機――それともハワイがいいか?」

「フロリダよ。絶対」

 やわらかな、かたちのよい乳房を愛撫すると、クレアはうっとりとため息をついた。

 ファビオはにがにがしく思った。
 なぜ、やめると言わないのか。
 なぜ、完璧に思い切らないのか。




「お――」

 ファビオはエントランスホールに入ってきた背の高い男に目をとめた。

 ライオンでも入ってきたかのようにホールが鎮まった。
 映画スターだろうか。高級スーツをむぞうさに着崩し、シャツをはだけて日焼けした肌を見せている。陽気さとエネルギーが匂いたつようだった。
 黒い火のような目をして、面白がるようにゆっくり歩いてくる。

「マフィアのドンか」

 ファビオの傍らで同僚も同じく目を奪われていた。
 受付嬢の前に出ると、男は唇にだらしのない微笑を刻んだ。

「ミケーレ・ブレガ。2時にミスター・クロフォードとアポイントがある」

 受付嬢は硬い声で、お待ちください、と告げ、確認をとった。

「ミスター・ブレガ。どうぞ。奥のエレベーターから57階へおあがりください」

「ありがとう」

 男はひょいと受付嬢の手をとった。その手の甲に口づけ、

「きみの仕事にはスマイルも含まれていると思うよ」

 となじった。
 受付嬢は赤くなって微笑った。

「もうしわけありません」

「スマイル。セクシーな唇だ」

 男がエレベーターに消えると、ようやくホールが我にかえった。
 その場にいた全員が、ひとりの男の挙動を見守っていた。

「いやらしいなあ! イタリアは」

 同僚はかぶりを振った。「毎日ピザ食ってると、あんなになるのか」

 ファビオは答えなかった。
 2時からの客だ。クロフォードを抱きにきた男だった。





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