「帰ってくれ」
クロフォードは立ったまま待った。
ファビオは高級アパートの広いリビングを興味深く見てまわった。ホームバー。暖炉。ミルキーホワイトのソファセット。絹ばりのオレンジのクッション。
「わお、ニューヨーク」
窓からはイーストリバーのむこうに摩天楼が見える。夜であれば、夜景は素晴らしいだろう。
ファビオはソファにどっかりと座った。
「ワオ、セレブの暮らし! でも、ひとりで住むには広すぎません?」
挑発するようにクロフォードを見上げる。
クロフォードはTシャツとジーンズというラフないでたちだった。
が、スーツを着ていた時とかわりなく、とりつくしまがない。
「警察を呼ぶ」
「どうぞ。おとなしく留置場にいきますよ。留置場で泣きます。恋人にぶちこまれたって。一度は愛し合った仲なのに」
クロフォードは言った。
「あの時、言ったはずだ。これきり近づくなと」
「その後、言ったはずです。そんなの関係ないって。座ったらどうです。飲み物でも持ってきてくれるなら別だけど」
ファビオは軽く切り返しながら、さりげなくクッションを掴んだ。指がふるえかけていた。
クロフォードの目にはあいかわらず動揺が見えない。本当に警備員を呼ぶだろう。
「警備員を呼んでいいですよ」
ファビオは言った。
「でも、ぼくの話を先に聞いてください。ぼくはあなたを助けたいんだ」
「必要ない」
「あなたの飼い主の名前を教えてください。あなたの値段も。ほかに何か方法があるなら教えてください」
「助けてなどいらない」
「あのブレガ氏があなたの主人なのですか」
「ミスター・カレッラ――」
クロフォードは手をあげて、ファビオを制した。
「お気持ちありがとう。だが、本当に結構だ。わたしは自分で対処していける。きみにはこれ以上、かかわってもらいたくない」
帰りたまえ、と手でうながす。
ファビオは呻きそうになった。たくさんの言葉を用意してきたはずだったが、金属のような上司を前にすると、何も言えなくなってしまう。自分がひどく陳腐に感じる。
「わかりました」
ファビオは煮え切らないガールフレンドに使う最後の手段に出た。
「コーヒーぐらい出してください。飲んだら帰りますから」
「悪いが、何ももてなすつもりはない」
あっさりかわされ、ファビオはためいきをついた。彼は立ち上がった。
「それほど言うなら帰ります。ブレガ氏には自分で聞きますよ」
クロフォードがはっと目をあげた。
「よせ」
ファビオはふりかえった。
「彼に近づくんじゃない」
「なぜです」
「なぜでもだ。あいつらとかかわりになるな」
「誰なんです、彼?」
クロフォードは口をつぐんだ。
「教えてくださいよ。オリオン座からの使者ですか」
ファビオはクロフォードに迫った。クロフォードがその分退く。ファビオはさらに踏み出し、手をのばしかけた。
「やめてくれ」
クロフォードはにべもなく言った。「わたしに二度とさわるな」
ファビオは傷ついた。
ブレガに感じていたみじめさがわっとわきかえり、毒となってはらわたに染みた。血がどす黒く変わっていく。
――おれを、見下しやがって。
ファビオは憎悪のためにふらついた。手をさしのばし、クロフォードの腕をつかんでいた。振り放そうとする腕をさらに強く掴んだ。
灰色の目が揺れた。
「ミスター・カレッラ、帰りなさい」
ファビオは踏み出し、クロフォードを腕に抱こうとした。クロフォードははげしく抗った。手首をおさえても、膝蹴りでファビオの横腹を強打した。
ファビオはカッとのぼせた。その足を払い、クロフォードを床に押し倒した。膝と手で四肢を抑え、顎でおさえながら唇を押し付ける。クロフォードは口づけさせまいと首をそむけてもがいた。
「どうして!」
ファビオは悲鳴のように訴えた。
「どうしてぼくじゃダメなんです」
「どけ」
「言ってください。どうしたら愛してくれるんです」
「おれの上からどけ!」
灰色の目が燃えるように閃いた。ファビオはつい気圧され、手から体重を浮かせた。
クロフォードはもがき出るように起き上がった。
彼は怒りに顔をこわばらせていた。ファビオの見る前でむしりとるようにTシャツを脱ぐ。
「見ろ」
彼は白い背をむけた。ファビオははっと眼をみはった。
そこには赤い線状の傷が無数に這っていた。
「この間のきみとのデートのせいで、いまだこれだ。おれが飼い犬だって言っただろう。24時間監視がついてる。寄り道すれば報告がいく。なんでも罰の口実になるんだ。頼むから放っておいてくれ!」
いまいましげに床を睨む。クロフォードの頬は血の気をうしなっていた。
ファビオは打たれたように白い背を見ていた。ひりひりとした痛みが霧のように立ちのぼって見えた。
――おれは。
ファビオは目をしばたいた。
そこにいるのは神のごときパワーエグゼでも、上流階級の高級娼婦でもなかった。
赤剥けの傷を負った、ひとりの男だった。尊厳を奪われ、血を流しながら耐えているひとりぼっちの男だった。
にわかに頭から熱が引いて行った。
ファビオは不意に、鼻の奥に情けない湿り気を感じた。
そっと、その赤い背に唇を触れていた。
クロフォードの体がかすかに振れる。
ファビオは熱を冷ますように傷にキスをくりかえした。獣が仲間の傷をなめるように唇で痛みを拭いとろうとしていた。
クロフォードは動かなかった。うなだれ、黙ってされるがままにしていた。
(光だ――)
唇が乳首をなぞっている。舌先がそっとはじくたびに、胸のなかで微細な青白い光が散る。下腹に淫らな波がたつ。
クロフォードは眉をしかめ、窓の外を眺めた。火照った体に微風が心地よい。自分の上にいる若者の肌が心地よい。
帰ろうと立ち上がったファビオを呼び止めたのは、クロフォードだった。その首に手をかけてかき寄せ、口づけていた。
(どうにでもなれ)
罰はある。何も科がなくても罰せられる。罪がひとつ増えてもいいではないか。
クロフォードには抱擁が必要だった。主人ではなく、健康な人間の熱に餓えきっていた。
(あ――)
強く乳首を吸われ、クロフォードは身じろぎした。彼の反応に気づいたのか、ファビオが音をたてて吸う。片手でいまひとつの乳首をつまんだ。
「ン――」
クロフォードはファビオの頭をおさえた。その黒い髪をつかむ。淫らな熱に下腹が脈打っている。ペニスがものほしげに身をもたげている。
(いやだな)
慣れだ。乳首を愛撫されるだけで、勃起するようしこまれた。
いつも、気にもとめないことが、なぜか恥ずかしい。ペットであることが恥ずかしい。
ファビオはそれを知らない。クロフォードの息が速くなったと気づき、手を下肢にずらしていく。
欲情したペニスに触れられ、クロフォードはわずかに苦しくおもった。
(いやだ……)
指が快楽をよりあげている。クロフォードの耳朶には客の声が聞こえていた。
――牝犬。おっぱいをいじられただけで、もう悦いのか。
――すました顔して、もうビショビショじゃないか。
「フランシス」
黒い目が思いつめたように見下ろしていた。
「好きだ。フランシス」
ファビオは彼に口づけた。クロフォードは鼻から力がぬける思いがした。もう、ファーストネームで呼ぶのか。
だが、彼はファビオの背に腕をまわした。口づけを受けながら、足をひらき、ファビオのために場所をあけた。
性器への愛撫がしだいに追い上げてくる。
「ああ――」
ペニスが極限まで張り詰め、クロフォードは厚い背に爪をたてた。
「だめ――、きて、きてくれ」
「一度、イって――」
「いやだ。――欲しい」
ファビオはおめくと飛び上がるように姿勢をかえた。クロフォードのからだに腰を突き入れる。
「くッ――」
ぬめりに乏しいペニスがクロフォードの内壁を削り取った。裂かれる痛み、そして怒涛のような快楽がクロフォードの頭蓋を打った。
(光だ。熱と光――)
吐精していた。
深い快楽のなかでクロフォードは目をとじた。腰の中のファビオの熱を感じた。ファビオは動かないようにこらえてくれていた。からだが溶け合うまで辛抱強く待ち、クロフォードの肩や鎖骨にキスを落としていた。
クロフォードはその背に爪をたてた。
厚い背だった。筋肉がよく実り、手ごたえがある。ファビオのどこをとっても、若く、臭みがなく、健康に思えた。エネルギーに満ち、まぶしかった。
(明るい――)
ファビオが動くと光が瞬いた。クロフォードはおどろいた。いつもの無味乾燥な電気信号ではなく、細胞がひとつひとつ光をおびて、振動した。まばゆい黄金の海のなかでシェイクされているようだ。
(この子は若くて――無知で――きれいだ)
ファビオがしだいに昂ぶり、獣じみた声をあげた。歓喜に咆哮する。彼のからだが鋼のようにこわばり、痙攣する。
クロフォードのはらわたが濡れた。ふたりのからだが熱い蜜でからまりあう。クロフォードは自ら吐精したように陶酔した。
クロフォードは壁によりかかって、ファビオがシャツの袖を留めるのを見ていた。
「もう――来るなよ」
「ここへは来ません。会社で会いましょう」
「会わない」
「連絡します」
ファビオは立ち上がった。黒い目は幸福に輝いていた。
「ぼくは本気です。あなたを自由にしたい」
「よけいな世話だ」
ファビオはクロフォードの顎をとり、口づけた。クロフォードは若者がしつこく舌をからめるのをゆるした。若者は甘露でもあるかのように、いつまでも舌を吸っていた。
甘い黒い目が見下ろしている。
「フランシス、あなたを愛している」
「早く帰りなさい――ファビオ」
若者の顔がぱっと輝いた。
クロフォードは彼のファーストネームを覚えていた。秘書が毎日届ける市内からの郵便物にかならずファビオ・カレッラのメッセージがまざっていた。
|