第5話


 「帰ってくれ」

 クロフォードは立ったまま待った。

 ファビオは高級アパートの広いリビングを興味深く見てまわった。ホームバー。暖炉。ミルキーホワイトのソファセット。絹ばりのオレンジのクッション。

「わお、ニューヨーク」

 窓からはイーストリバーのむこうに摩天楼が見える。夜であれば、夜景は素晴らしいだろう。
 ファビオはソファにどっかりと座った。

「ワオ、セレブの暮らし! でも、ひとりで住むには広すぎません?」

 挑発するようにクロフォードを見上げる。
 クロフォードはTシャツとジーンズというラフないでたちだった。
 が、スーツを着ていた時とかわりなく、とりつくしまがない。

「警察を呼ぶ」

「どうぞ。おとなしく留置場にいきますよ。留置場で泣きます。恋人にぶちこまれたって。一度は愛し合った仲なのに」

 クロフォードは言った。

「あの時、言ったはずだ。これきり近づくなと」

「その後、言ったはずです。そんなの関係ないって。座ったらどうです。飲み物でも持ってきてくれるなら別だけど」

 ファビオは軽く切り返しながら、さりげなくクッションを掴んだ。指がふるえかけていた。
 クロフォードの目にはあいかわらず動揺が見えない。本当に警備員を呼ぶだろう。

「警備員を呼んでいいですよ」

 ファビオは言った。

「でも、ぼくの話を先に聞いてください。ぼくはあなたを助けたいんだ」

「必要ない」

「あなたの飼い主の名前を教えてください。あなたの値段も。ほかに何か方法があるなら教えてください」

「助けてなどいらない」

「あのブレガ氏があなたの主人なのですか」 

「ミスター・カレッラ――」

 クロフォードは手をあげて、ファビオを制した。

「お気持ちありがとう。だが、本当に結構だ。わたしは自分で対処していける。きみにはこれ以上、かかわってもらいたくない」

 帰りたまえ、と手でうながす。

 ファビオは呻きそうになった。たくさんの言葉を用意してきたはずだったが、金属のような上司を前にすると、何も言えなくなってしまう。自分がひどく陳腐に感じる。

「わかりました」

 ファビオは煮え切らないガールフレンドに使う最後の手段に出た。

「コーヒーぐらい出してください。飲んだら帰りますから」

「悪いが、何ももてなすつもりはない」

 あっさりかわされ、ファビオはためいきをついた。彼は立ち上がった。

「それほど言うなら帰ります。ブレガ氏には自分で聞きますよ」

 クロフォードがはっと目をあげた。

「よせ」

 ファビオはふりかえった。

「彼に近づくんじゃない」

「なぜです」

「なぜでもだ。あいつらとかかわりになるな」

「誰なんです、彼?」

 クロフォードは口をつぐんだ。

「教えてくださいよ。オリオン座からの使者ですか」

 ファビオはクロフォードに迫った。クロフォードがその分退く。ファビオはさらに踏み出し、手をのばしかけた。

「やめてくれ」

 クロフォードはにべもなく言った。「わたしに二度とさわるな」

 ファビオは傷ついた。
 ブレガに感じていたみじめさがわっとわきかえり、毒となってはらわたに染みた。血がどす黒く変わっていく。

 ――おれを、見下しやがって。

 ファビオは憎悪のためにふらついた。手をさしのばし、クロフォードの腕をつかんでいた。振り放そうとする腕をさらに強く掴んだ。

 灰色の目が揺れた。

「ミスター・カレッラ、帰りなさい」

 ファビオは踏み出し、クロフォードを腕に抱こうとした。クロフォードははげしく抗った。手首をおさえても、膝蹴りでファビオの横腹を強打した。

 ファビオはカッとのぼせた。その足を払い、クロフォードを床に押し倒した。膝と手で四肢を抑え、顎でおさえながら唇を押し付ける。クロフォードは口づけさせまいと首をそむけてもがいた。

「どうして!」

 ファビオは悲鳴のように訴えた。

「どうしてぼくじゃダメなんです」

「どけ」

「言ってください。どうしたら愛してくれるんです」

「おれの上からどけ!」

 灰色の目が燃えるように閃いた。ファビオはつい気圧され、手から体重を浮かせた。

 クロフォードはもがき出るように起き上がった。
 彼は怒りに顔をこわばらせていた。ファビオの見る前でむしりとるようにTシャツを脱ぐ。

「見ろ」

 彼は白い背をむけた。ファビオははっと眼をみはった。

 そこには赤い線状の傷が無数に這っていた。

「この間のきみとのデートのせいで、いまだこれだ。おれが飼い犬だって言っただろう。24時間監視がついてる。寄り道すれば報告がいく。なんでも罰の口実になるんだ。頼むから放っておいてくれ!」

 いまいましげに床を睨む。クロフォードの頬は血の気をうしなっていた。

 ファビオは打たれたように白い背を見ていた。ひりひりとした痛みが霧のように立ちのぼって見えた。

 ――おれは。

 ファビオは目をしばたいた。

 そこにいるのは神のごときパワーエグゼでも、上流階級の高級娼婦でもなかった。

 赤剥けの傷を負った、ひとりの男だった。尊厳を奪われ、血を流しながら耐えているひとりぼっちの男だった。

 にわかに頭から熱が引いて行った。

 ファビオは不意に、鼻の奥に情けない湿り気を感じた。

 そっと、その赤い背に唇を触れていた。
 クロフォードの体がかすかに振れる。

 ファビオは熱を冷ますように傷にキスをくりかえした。獣が仲間の傷をなめるように唇で痛みを拭いとろうとしていた。

 クロフォードは動かなかった。うなだれ、黙ってされるがままにしていた。



(光だ――)

 唇が乳首をなぞっている。舌先がそっとはじくたびに、胸のなかで微細な青白い光が散る。下腹に淫らな波がたつ。

 クロフォードは眉をしかめ、窓の外を眺めた。火照った体に微風が心地よい。自分の上にいる若者の肌が心地よい。

 帰ろうと立ち上がったファビオを呼び止めたのは、クロフォードだった。その首に手をかけてかき寄せ、口づけていた。

(どうにでもなれ)

 罰はある。何も科がなくても罰せられる。罪がひとつ増えてもいいではないか。

 クロフォードには抱擁が必要だった。主人ではなく、健康な人間の熱に餓えきっていた。

(あ――)

 強く乳首を吸われ、クロフォードは身じろぎした。彼の反応に気づいたのか、ファビオが音をたてて吸う。片手でいまひとつの乳首をつまんだ。

「ン――」

 クロフォードはファビオの頭をおさえた。その黒い髪をつかむ。淫らな熱に下腹が脈打っている。ペニスがものほしげに身をもたげている。

(いやだな)

 慣れだ。乳首を愛撫されるだけで、勃起するようしこまれた。
 いつも、気にもとめないことが、なぜか恥ずかしい。ペットであることが恥ずかしい。

 ファビオはそれを知らない。クロフォードの息が速くなったと気づき、手を下肢にずらしていく。

 欲情したペニスに触れられ、クロフォードはわずかに苦しくおもった。

(いやだ……)

 指が快楽をよりあげている。クロフォードの耳朶には客の声が聞こえていた。

 ――牝犬。おっぱいをいじられただけで、もう悦いのか。

 ――すました顔して、もうビショビショじゃないか。

「フランシス」

 黒い目が思いつめたように見下ろしていた。

「好きだ。フランシス」

 ファビオは彼に口づけた。クロフォードは鼻から力がぬける思いがした。もう、ファーストネームで呼ぶのか。

 だが、彼はファビオの背に腕をまわした。口づけを受けながら、足をひらき、ファビオのために場所をあけた。
 性器への愛撫がしだいに追い上げてくる。

「ああ――」

 ペニスが極限まで張り詰め、クロフォードは厚い背に爪をたてた。

「だめ――、きて、きてくれ」

「一度、イって――」

「いやだ。――欲しい」

 ファビオはおめくと飛び上がるように姿勢をかえた。クロフォードのからだに腰を突き入れる。

「くッ――」

 ぬめりに乏しいペニスがクロフォードの内壁を削り取った。裂かれる痛み、そして怒涛のような快楽がクロフォードの頭蓋を打った。

(光だ。熱と光――)

 吐精していた。
 深い快楽のなかでクロフォードは目をとじた。腰の中のファビオの熱を感じた。ファビオは動かないようにこらえてくれていた。からだが溶け合うまで辛抱強く待ち、クロフォードの肩や鎖骨にキスを落としていた。

 クロフォードはその背に爪をたてた。
 厚い背だった。筋肉がよく実り、手ごたえがある。ファビオのどこをとっても、若く、臭みがなく、健康に思えた。エネルギーに満ち、まぶしかった。

(明るい――)

 ファビオが動くと光が瞬いた。クロフォードはおどろいた。いつもの無味乾燥な電気信号ではなく、細胞がひとつひとつ光をおびて、振動した。まばゆい黄金の海のなかでシェイクされているようだ。

(この子は若くて――無知で――きれいだ)

 ファビオがしだいに昂ぶり、獣じみた声をあげた。歓喜に咆哮する。彼のからだが鋼のようにこわばり、痙攣する。

 クロフォードのはらわたが濡れた。ふたりのからだが熱い蜜でからまりあう。クロフォードは自ら吐精したように陶酔した。




 クロフォードは壁によりかかって、ファビオがシャツの袖を留めるのを見ていた。

「もう――来るなよ」

「ここへは来ません。会社で会いましょう」

「会わない」

「連絡します」

 ファビオは立ち上がった。黒い目は幸福に輝いていた。

「ぼくは本気です。あなたを自由にしたい」

「よけいな世話だ」

 ファビオはクロフォードの顎をとり、口づけた。クロフォードは若者がしつこく舌をからめるのをゆるした。若者は甘露でもあるかのように、いつまでも舌を吸っていた。
 甘い黒い目が見下ろしている。

「フランシス、あなたを愛している」

「早く帰りなさい――ファビオ」

 若者の顔がぱっと輝いた。
 クロフォードは彼のファーストネームを覚えていた。秘書が毎日届ける市内からの郵便物にかならずファビオ・カレッラのメッセージがまざっていた。





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