クロフォードは足をひきずるようにして、アパートを出た。
迎えの車に乗ると、シートにはすでにミケーレ・ブレガの手下がいた。
「おはよう、フラン。コーヒー飲むか」
近くのデリで買ったらしい朝食がテーブルに置かれている。クロフォードはかすかに首をふって、シートにもたれた。
「顔色が悪いな」
男はひとりでコーヒーをすすった。
この三ヶ月、何度かクロフォードは癇癪を起こした。一切が耐えがたくなり、習慣に抗った。ヴィラの客が来る日は、美術館めぐりをした。捕まえに来たミケーレの手下たちに抵抗し、その度にリンチにあった。
ついにはミケーレが呼びつけた。連日の拷問にクロフォードは泣き叫び、ボロボロになって非を詫びた。
アパートに戻されたが、彼は立ち直れなかった。今の生活に意味を見出せなかった。
好きだった経営にももはや興味をもてない。未来への夢もない。どこにも光はなく、重い泥の中を一歩一歩進むように生きていた。
「今日はヴィラの日だったな」
男はコーヒーの紙コップに蓋をした。
「ふらふらどっか行くんじゃねえぞ。また爪の間に電極刺されたくないだろ」
クロフォードは裸で椅子に座らされていた。
両腕をワイシャツで背後に縛られている。足をそれぞれ肘かけにくくりつけられ、膝を開かれていた。客の目に性器と肛門をさらしていた。
「扇情的な眺めですよ。クロフォードさん」
若い客は面白そうに見つめた。
「わりとふつうなんですね。ピアスもない。乳首もそう大きくないし」
クロフォードは眉をしかめた。客の指が肛門に触れている。
「なのに、なんでうまそうな感じがするのかなあ。彫刻みたいなつまらない顔なのに、熟した果物みたいな、崩れた感じがする。すごくおれのオスが反応するんですよ」
若い客は彼にキスした。舌をほおばりながら、指先を肛門にもぐりこませる。
クロフォードは陰気に愛撫に耐えていた。いとわしい感覚が腹のなかに響いている。勝手に彼の神経を翻弄していく。
からだは愛撫にこたえ、色を増す。尾底骨がこわばり、ペニスが充血する。息が浅く刻まれる。
だが、あまりの空虚さにのけぞりそうだった。この客の空疎さは? 質感のなさは? 紙に抱かれているようだ。
いや、客だけがむなしいのではない。彼の座る椅子も、デスクも、この部屋も、窓の外の町もすべて紙のように思えた。
どこにも手をかけるところがない。足元さえおぼつかない。
「ミスター・クロフォード?」
クロフォードは客の表情に気づいた。自分の顔が濡れていた。顎から水滴が滴り、胸に落ちる。
その水滴が腹をすべる様をぼんやり見つめた。
「どうしました」
「――いいえ」
クロフォードは目をそらした。「なんでもありません」
ここがどこなのかわからない。あのビルも紙で出来ているのではないか。この色のなさはどういうことなのか。
客が指を足して深くめりこませた。はらわらをかきまわす。ゼリーの湿った音がたち、からだが煽られる。だが、わが身さえ、スポンジのように実感がなかった。
「お願いです――」
クロフォードはあえいだ。「早く抱いてください」
客は困惑したような薄笑いを浮かべた。何ごとか言ったが、意味がよくわからない。
色彩も、声すらも消失していく。
クロフォードはうろたえ、もがいた。
椅子の端がデスクに当たり、新しい郵便物の山が崩れる。崩れた郵便物の間に、見慣れたFの字があった。
『18日、チェンバーズ・ホテル。タウンで簡易クリニック・トビアスの記念パーティー。これならバレないから絶対に来て。F』
そのホテルは5番街の真中にあった。
「お待ちしておりました。ミスター・クロフォード」
地下のダイニング、タウンは流通関係とマスコミの人間であふれていた。
クロフォードは何人かの知り合いとせわしく挨拶した。トビアスの社長と握手しながら、目を人ごみに走らせる。話し掛けたがる人間が幾重にも現れて、視界をふさいだ。
だが、一瞬人垣に隙ができた。壁の前で、彼を見つめている若い男がいた。
「失礼――」
クロフォードは人々から離れた。
壁の前からファビオが動く。こっちへ、と目でいざなっていた。
クロフォードは少し離れてファビオを追った。
ファビオはダイニングを抜け、階段をあがった。一階に出るとホールを突っ切っていく。正面玄関から出て行った。
クロフォードは早足で彼を追った。五番街に出たとたん、見失う。ふりかえると、ファビオに腕を引かれていた。
ふたりはもつれるように走った。ビルの隙間に駆け込む。暗い路地に入ったとたん、ファビオはいきなりクロフォードを抱きとめた。
「会いたかった」
揉みつぶさんばかりにかたく抱いた。クロフォードは雷電に打たれたようにすくんだ。
熱いからだが彼を支えていた。逞しい腕、弾む筋肉があった。心地よい香り、まばゆいような光がその体に入っていた。
クロフォードはふるえた。夢中でその背にしがみついた。嗚咽が咽喉を食い破ってあふれる。その逞しい肩に顔をおしつけ、声を殺して泣いた。
「ファビオ――たすけて――助けてくれ」
ファビオは後悔に打たれた。
タクシーのシートにもたれたクロフォードは、夜目にはっきりわかるほどやつれていた。頬が落ち、目がけわしい。唇は苦痛にたえてきつく結ばれていた。
(おれが馬鹿だった)
クロフォードが囲われていることを知っていて、手を引いた。彼が自分を遠ざける理由などわかっていたはずだった。鞭で打たれた生傷を見たはずだった。
だが、三ヶ月も拗ねていた。愛している、というメッセージを待って三ヶ月、茫々と暮らしていた。
ファビオはアパートに恋人を引きいれた。入ったとたん、とり憑かれたようにクロフォードに襲いかかった。
クロフォードもまた異様に昂ぶっていた。噛みつくように彼にキスを浴びせ、ファビオの服をむしりとった。
「――ッ」
クロフォードがぐっと肩を丸め悲鳴をこらえる。ファビオは無我夢中で、クロフォードのなかに突き入っていた。
「アア――ハッ――」
クロフォードは腰の中を穿たれ、首をのけぞらせて、喘いだ。
「ファビオ――ファビオ――」
ファビオは腕をのばし、クロフォードの背を抱きしめた。クロフォードがしがみつくようにつかまる。
「ファビオ――」
名を呼ばれて、ファビオは昂ぶりのあまりくらみかけた。同時に、恋人の迷子のような哀れさに、号泣しそうだった。
ファビオはクロフォードの首筋に訴えるようにキスした。
(すまない。――もう大丈夫だから。そんなに怯えないでくれ。そんなに責めないでくれ)
おれが地球を持ち上げてやる。アトラスよりも、高く。
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