第8話


 窓から朝日が差し込む。
 クロフォードは惚けたように光に見とれた。

 ファビオは隣で心地よげないびきをかいている。彼の心臓はやすらかで、いびきもやすらかだった。

 光すら、手ごたえがたしかで、跳ね返るようだった。

 クロフォードはファビオの肩に口づけた。頬擦りしてその熱をたしかめる。あたたかですべらかで弾力がある。
 

「――」

 ファビオが身じろぎして、ねぼけまなこを開けた。クロフォードに気づくと、ねぼけた微笑を浮かべる。

「やあ、ダーリン」

 クロフォードは首をのばし、その頬にキスした。ファビオが満足したライオンのように微笑む。

「おはよう。腹減った?」

 クロフォードは、あいまいにうなづいた。ろくに食べない日がつづき、空腹感など忘れていた。

「待ってて」

 ファビオはすぐにシーツから出ていった。キッチンでにぎやかな音がたつ。バスルームから水音がする。鼻歌がきこえる。

 クロフォードはベッドに肘をつき、なかば、あぜんと朝の風景を眺めた。

 部屋にみずみずしい光が差している。使い古された空気は一新され、なにもかもきよらかだった。クローゼットも、くしゃくしゃのシーツも脱ぎ散らした衣服も埃だらけの窓も、みな神聖だった。
 コーヒーの香りが漂いだし、クロフォードはぼう然とした。

(こんな朝もあったんだ)

 ファビオが顔をのぞかせた。

「卵はどのように?」

「両面焼いて」

 クロフォードはベッドから這い出た。着るものをつかんで、バスルームに入る。

 身じまいして出てくると、朝食が出来ていた。皿にソーセージとベーコン・エッグが油を跳ね、木のボールにポテトサラダが盛られていた。コーヒーポットの隣にフレッシュジュースのジャーが置かれている。テーブルクロスは清潔だった。

「すごいな」

 クロフォードは素直に言った。「テレビの朝食みたいだ」

「新婚だからね」

 ファビオはコーヒーを差し出した。「いっしょに暮らそう。あのアパートにはもう帰らないでくれ」

 クロフォードはコーヒーを飲んだ。鼻腔にほろにがい香りを感じ、うまいとおもった。ひさびさに味を感じた。

「会社も辞めるんだ。今夜、メキシコへ行こう」

 クロフォードはトーストをとって、バターを塗った。

「聞いてる?」

「無理だ」

「メキシコに知り合いがいる」

「ファビオ、おれは行けない」

「じゃ、どこがいい? エジプト?」

「なんだか、ひさしぶりにものを食べた感じがする」

「ソーセージ、まだあるよ。――ダーリン。前向きにいこう。逃げないならそれでもいい。おれにあのブレガと話をさせてくれ。まず交渉のテーブルについて」

「おれの値段は1億2000万ドル。飼い主はひねくれもので、マフィアのドンだ。ブレガは彼の手下だよ」

「わかった。ドンと戦うよ」

 クロフォードは鼻息をつき、コーヒーを飲んだ。ファビオは首を振った。「ふざけてると思ってんだろ」

「ふざけてはいないが、現実を認識していない」

「はっ、あんたはピーナツみたいに、おれをデンバーへ弾き飛ばしてくれたけどね。おれは東海岸バイヤー界のエースなんだ。テロリスト相手に値引き交渉できる。いわんやマフィアのドンをや」

「コーヒーもらえる?」

 ファビオはコーヒーを注いだ。

「まあ、上司が何を言おうとおれはやるから」




 クロフォードは夢中でファビオに口づけた。歯を、歯の裏を、舌を、上あごを、飢えた者が甘露をむさぼるように舌をすべらせた。

 彼はファビオの膝の上に跨っていた。若い恋人にからだをひらき、体重を預けきっている。クロフォードはもはや逃げようとはしなかった。

 大きな手が腰を支えていた。尻を撫でている。その手がずれるだけで、クロフォードの細胞は炭酸の泡のように沸き立った。
 ファビオの手はせわしなく動いた。尻をつかみ、腰をさすり、彼の胸にすべりあがった。

「ア」

 クロフォードは肩をすくめた。
 ファビオの指が乳首をいじっている。いじりながら、なお唇を求めてくる。
 舌を受け入れながら、クロフォードは眉をしかめた。乳首の刺激に急激にからだがざわめく。からだのあちこちが小さくスパークする。

 クロフォードは手をファビオの股間に伸ばした。あたたかくいきり立ったそれを手のひらにつかむ。彼はやや気ぜわしく恋人のペニスを愛撫した。愛撫しながら、ファビオの舌を吸った。

 荒い息の合間にファビオが微笑みかける。なにか言おうとする。クロフォードはあえぐだけだった。すでに彼のペニスはぐっと命をおびて天を向いていた。

「ファビオ――もう、欲しい」

 たまりかねて、恋人を抱きしめる。「今――今――」

 ファビオの手が腰をつかんだ。持ち上げ、自らのペニスの上に据える。ゆっくりとからだをあわせていく。

「あ――あ――」

 クロフォードはのけぞった。

「ファビオ!――アアッ――」

 熱い生命の塊につらぬかれ、クロフォードは歓喜した。古い肉体が剥がれ落ち、深奥のエネルギーが燦然と輝く。翼が大きくひろがる。

「ああ……ファビオ――あ、ハッ」

 ファビオが肌を吸っている。その振動がペニスにあふれんばかりに熱い血を送り出す。
 クロフォードは叫んだ。恋人にしがみつき、何度もその名を呼んだ。

 ――ファビオ。好きだ。ファビオ。ファビオ!





(何をグズグズしているんだ。もう行かなければ――)

 クロフォードはカウチにもたれ、ぼんやりと汚れた窓を見ていた。
 四時を過ぎていた。携帯電話には怒りのメッセージがたまっている。ミケーレ・ブレガの手下が捜索に出ている。帰らなければならない。

 だが、椅子から立てなかった。
 二時間、彼は汚れた窓を見ていた。
 頭では、バカなことをしているとわかっている。ファビオと逃げる気はない。

 以前、逃げた。空港でつかまり、アイロンで足の裏を焼かれた。
 ヴィラの犬は逃げられない。それなら、すぐに帰るべきだったが、クロフォードは動かなかった。
 何をしようというのでもなく、まったくの無策だった。ただ時間を無駄にしている。

(おれは怯えている――)

 彼は憂鬱に窓ごしの空をながめた。
 また鉄条網の中へ帰るのがこわい。待っているであろうリンチがこわい。また男たちの慰みものにされるのがこわい。

 ファビオとはもう会えないだろう。彼の手を放すと思うと、胴がふるえそうになるほど恐ろしかった。

 この三ヶ月間、自分でも呆れるほど消耗した。何も我慢できなかった。袋の中につめられたネコのようにパニックを起こして暴れていた。
 どうやってまた耐えていけるのか。

(いっそ、ここで終わりに――)

 そう思った時、唐突に玄関のチャイムが鳴った。それは続けて鳴った。
 クロフォードは身をこわばらせて玄関のほうを見た。ドアノブがガチャガチャ鳴る。

 ――来た。

 彼は思わず窓を見た。飛び降りるなら今しかない。

 だが、ため息を大きくつくと、彼は身を起こした。

「今、開ける」

 声を待たずにドアに穴が開いた。鍵がめくれるようにははじけ飛ぶ。ゆらりとドアが開いた。

「やあ、フラン」

 ミケーレの手下が立っていた。サイレンサーのついた銃を向けながら、黄色い歯をむいて笑う。

「元気か、フラン。殴っていいか、フラン。いいわけなんか聞かないぜ。おれは猛烈に腹がたってる。おまえに訴訟をおこしたいぐらいだ」

 男は言った。「フロリダからお呼びだ。ドン・ニコラ・カステリーニが帰ってこいとさ」

「上着をとってくる。ちょっと待っててくれ」

 クロフォードはそっけなく言って、身をひるがえした。息が硬くこわばるのはどうしようもなかった。





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