不貞  第2話

 攻撃者への最大の復讐はハッピーであることだ。
 犯られて落ち込んだら、よけい敵をよろこばせるだけだ。

 おれはレイプのことは忘れるべきだと思った。
 仲間もあれ以来、そのことには触れないでいてくれている。

 むろん、表面だけだ。皆が気にしているのはわかるし、やられっぱなしで、ヴィラにも訴えないおれを歯がゆく思っている。なにより、ご主人様に知らせないことに戸惑っている。

 冗談じゃない!
 ご主人様になど絶対知らせるわけにはいかない。
 こんなことを知っても誰もよろこばない。こんなくだらないことは早々に記憶から消し去ってしまうことだ。

 だが、困ったことが起きていた。
 おれは外出できなくなってしまった。

 カニス・フォルムに行くバスのなかで、でかい犬にはさまれて落ち着かなくなった。筋骨隆々たる体がなぜかおぞましく感じる。彼らが身じろぎするたびに、心臓がサイレンのように鳴った。
 その日は体調不良をいいわけにして帰ってきたが、それきり行かなくなってしまった。

 買い物もできなくなった。ドムスを出たとたん、ハスターティ兵に出くわし、回れ右して帰ってきた。
 こまったことだ。この町はハスターティだらけなのだ。

 後遺症?
 ナンセンスだ。あんなもの平凡な事故だ。
 世の中にはもっと悲惨なことがたくさん起きている。おれは外でそんなもの見飽きている。
  



「もう我慢ならん。おれは言うぞ」

 エリックはいきなりフォークを投げ、切り出した。

「ロビン、おまえ医者へ行け」

 彼はにがりきっていた。「医者へ行って、安定剤でもなんでももらってこい」

 おれは早くもどぎまぎした。

「なに言ってんだよ。おれはべつに医者に用は――」

「だったら、なんだってそんなビクビクおどおどしてんだ。アルがパンを取るたびに飛びのきやがって。アルフォンソがおまえをレイプしたとでもいうのか」

 心臓に氷が触れたような気がした。ほかの面々もぎくりと息をつめる。
 アルフォンソが苦笑して、

「ここ狭いんだよ。目の前に手が出ればビックリするのはあたりまえだろう」

「いつまで甘やかしてんだよ、きみらは」

 エリックはテーブルを叩いて言った。

「こいつは逃げてんだ。ご主人様にも言わない。ヴィラにも言わない。なかったことにしたい。なかったことになんかなるか。どんどんこわくなって、身動きならなくなってきたじゃないか。そのうち、部屋に引きこもって出られなくなるさ。今だって家から一歩も出られない! 宅配の人間が来てもあわくって逃げ出す始末だ」

 エリックはおれを睨み、きびしく言った。

「ご主人様に言って、医者にいけ。おまえはタフじゃない。負けたんだ。負けにちゃんと対応しろ」

 鞭で打ち出されるような言葉だった。逃げ場をうしない、おれはカッとなった。

「あんたに何がわかるんだよ」

 持っていたパンを投げつけ、わめいた。

「おれはあんたみたいな特別じゃないんだ。おれは――言ったらおしまいなんだ!」

 皆が見つめる。怪訝そうに眉をひそめていた。
 おれは椅子を蹴って、ダイニングから飛び出した。




 部屋に来たのは意外にもミハイルだった。

「コーヒーでも飲まないか?」

 おれはヘッドフォンをしたまま、ベッドから動かなかった。ミハイルはテーブルにマグを置き、おれの足元に座った。

 おれは彼に言葉をかけなかった。
 音楽を聞いて、目をつぶっていた。音も歌詞も聞こえない。ただ、騒音にもまれて、ぼう然としていた。

 目を開くと、ミハイルはまだいた。
 そこにいる気配がほとんどない。要人をボディガードしているように、影になりきっている。

「以前」

 口を切ったのはおれだった。

「警官だった時、レイプされた女の子を保護したことがある」

 なんでこんなことを話すのだろう。

「その子、赤ん坊みたいに泣いてた。でも、ミニスカでさ、上は胸しか覆ってないビキニみたいなシャツなんだ。チアガールみたいな。仲間と陰で、あんな格好してるからだ、って話してた。男が気の毒だ、いいクスリだって。彼女がなんで泣いてるのか、なにも」

 そう言った途端、涙が出た。

「なにもわかってなかった」

 泣いたら止まらなくなった。歯を食いしばったが、もう我慢できなかった。苦しくて痛くて、胸がこなごなになりそうだった。

 ――ちくしょう。

 いいザマだ。本物の負け犬だ。

 気づくとティッシュの箱がひざのそばにあった。ミハイルは目を落とし、なにか言葉をさがすように息をつめていた。
 おれは盛大な音をたてて洟をかんだ。

「そんな、気にすんなよ」

 おれはティッシュごしに笑った。「おれももう忘れる。こんな、みんなに心配されて、恥ずかしいよ」

「ロビン」

 大きな手のひらが顔に触れた。手はおれの目を覆った。
 視界をふさがれると、力が抜けてしまった。どっと涙が流れた。顔が痛むほど歪んだ。
 おれはミハイルの手をつかみ、号泣していた。

「くやしい」

 おれは泣きながら白状した。

「汚い連中に犯られて、くやしい」

 報復もできない。忘れることもできない。毒は日増しに骨に沁みて、動けなくなってくる。敵は笑っているのに、おれは家のなかから出られなくなっている。不意に肩をつかまれたくなくて、家のなかでさえ警戒していた。
 ハッピーどころではない。がんじがらめだ。

「ロビン」

 ミハイルが目を見つめて言った。

「ご主人様に言おう。彼はわれわれの保護者なんだから」

「いやだ!」

 おれは文字通り飛びのいた。怯えた犬さながらに歯を剥き、吠えていた。

「絶対、言わない! こんなこと、あの人に知られたくない! 知られたらおしまいだ」

「なにがおしまいなんだ。ご主人様がきみを嫌いになるとでもいうのか」

「嫌いになるさ!」

 声がふるえた。そのことを思うと骨が鳴るほどおそろしい。

「ほかの男に食われた犬なんか、もう、だめだ」

 ミハイルが眉をひそめる。

「そんなことはない」

「そうなんだ!」

「キースもフィルもご主人様以外の相手を経験している」

「あいつらは、ご主人様に会う前だったじゃないか」

「ぼくは会ってからだ」

 ミハイルのまっすぐな目に一瞬たじろいだ。
 だが、それとこれとは話が違うのだ。

「あんたみたいなやつとは違うんだ」

 おれはわめいた。

「おれはただの犬っころなんだ。プラチナ犬じゃない! ほかの男に食われた不潔な犬なんか、誰が相手にするんだよ!」




 おれがほかの男に犯られたなんて、どうして言える。三人もの男を咥えこんだなどと。
 おれの取り得は少ない。おれはミハイルやアルフォンソとは違う。

 プラチナ犬ではない。強悍な剣闘士犬でもない。ご主人様を守って刺された、彫像のように美しい番犬でもない。

 平凡な、ちっぽけな犬なのだ。クリーンであることは おれのなけなしのカードだったのだ。

(それももうおしまいだ)

 いつまでも緘口令が守られるわけがない。もうすぐ知られる。
 あのひとは興醒めるだろう。

 気持ちというのは理屈じゃない。おれのせいではないと訴えたところで、あのひとが許したところで、元通りにはならない。
 あのひとはおれを見るたびに他人の足跡を見る。おれはそれを彼の目のなかに見るだろう。
 気持ちが冷え、離れるのはもうどうしようもないのだ。

(おれ、放逐かな)

 中庭を見下ろし、憂鬱な想像をめぐらしていると、ミハイルが呼んだ。

「なに」

「フィルから電話」

 階下に下りて、端末の前に座る。
 モニターに首輪姿のフィルが映っていた。

『やあ、ロビン。久しぶり』

 フィルは食事企画が終わって、成犬館のセルに戻っている。おれたちは時々、こうして連絡をとり、たまに病院などで会っていた。困りごとがあると、知恵者の彼に相談したりもする。

(まさか)

 いやな気がした。

「だれかがしゃべったんだな」

『――ああ。だれだか勘繰るなよ。バラしたのは全員だ』

「いいさ。あんたは友だちだ。それで? あんたも病院へ行けって?」

『ロビン、いま、キースとエリックはいるかい?』

 おれは邸内を見回し、音に耳をすませた。キッチンにはミハイルがいたが、それ以外の物音がない。

「いや」

『――彼らはいま危険なことをしようとしているよ』

 ヘイゼルの目が困ったようにおれを見ていた。きみのために、と言った。
 胸が不安に波立つ。

「どういうことだ」

『キースが思いつめてる。彼は自分ひとりでも復讐すると言っている。エリックも加担する気だ。昨日はぼくとミハイルが説得したが、聞き入れられなかった』

「なんの話をしているんだ?」

『彼らは犯人を自力で捕まえようとしているんだ。囮捜査でね。捕まえてリンチにかける気だ』

 鳥肌がたった。
 相手は会員だ。犬が立ち向かっていい相手ではない。

「な、なんでそんなバカなことを」

『当然だろう。きみがメソメソしていれば、仲間は傷つく。仇をとってやりたいと思うのが普通だろう』

 ――よけいなことを!

 おれは怒鳴りたくなった。そんなバカなことは頼んでいない。おれの問題だと言ったではないか。

「どこにいったか聞いてないか」

『きみが行っても無駄だ。今日は帰っても、明日またやる』

「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」

『ご主人様に止めさせるしかないだろう』

 おれは息を飲んだ。
 にわかに恐怖にかきとられる。足元が浮き上がってしまう。

(今すぐなんていやだ)

『ロビン』

 フィルは物憂く言った。

『きみはなんで自分のことしか考えられないんだ? きみの災難でみんながどれだけ自分を責めてるか、わからないのか』

 引っぱたかれたように痛かった。

(そんなことを言ったって)

 ご主人様が怒って、おれを放逐したらどうするのだ。

『ロビン。言うしかないんだよ。この回線はヴィラで管理している。たぶん、いまハスターティに通報が行っているだろう。そうなれば、別の口からご主人様に連絡がいく』 

 きみの口から伝えたほうがよくはないか? と言った。
 デッドエンドだ。
 おれは歯軋りした。

「悪魔だよ。あんたは」

『よく言われるよ』

 あきらめるしかなかった。時間もない。おれは通話を閉じる前に、うらみがましく言った。

「おれが放逐されたらこれで最後だな。金輪際、さよならだ」

 通話を切って、おれは怒鳴った。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
 終わりだ。おせっかいなバカどものせいで、おれは破滅だ。

 目をとじ、つらい息をついた。

 ――ツケを払わなければならない。

 短縮を押し、家令に言った。

「ご主人様につないでください。緊急です」




 急がねばならないのに、おれはスムーズに話せなかった。
 言葉が出ない。穴の開いた頭でしゃべっているようだ。

 ご主人様は酔っているのか、とからかった。
 だが、キースたちの行動を聞くと、その声から笑いが消えた。彼は家令と話すために通話を切った。

(終わっちまった)

 モニターの前で腑抜けのように椅子にもたれた。まだ悲しみはわかなかった。あまりに途方もないものがなくなり、ぼう然としていた。

 いきなり電話が鳴り、椅子から転げ落ちそうになる。

『ロビン』

 ご主人様だった。
 おれは蚊の鳴くような声で返事をした。

 ご主人様の声は淡々として低かった。 彼はおれを責めた。主人に隠しごとをするような犬を許すことはできない、と言った。こんな大事に発展した罪は、レイピストではなくおまえにある、と言った。

 おれはただぼんやりと返事をした。頭のなかで割れ鐘が鳴っているようで、何を言われているかよくわからない。が、結局、おまえみたいな馬鹿犬はいらないということのようだった。
 ただ、そのまえに罰を与える、ということはわかった。明日、アクトーレスに行かせる、と言った。


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