不貞 第3話 |
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「四つん這いになれ」 アクトーレスは、挨拶もなく無愛想に命じた。乗馬鞭とプラスチックの板を小脇に抱え、不快を押し殺したような無表情だった。 おれは膝が踊るように震えるのを感じた。 「ご主人様は」 「命令が聞こえなかったのか」 おれはアトリウムの床にへたりこんだ。手をつくが腰があげられない。ひどく息苦しい。 (!) 押さえようとした途端、のどを割って食べものが噴出した。 「甘やかされたもんだ」 アクトーレスのオクタビオはにがにがしげに言った。「甘やかされ、思い上がって、主人の目をごまかすようになった。ずうずうしい、恩知らずの犬め」 座るな、這え、と怒鳴った。 おれは毛穴から汗を噴くように焦っていた。這わなければいけないのはわかっている。だが、からだが動かない。筋肉が酢になったみたいに言うことをきかないのだ。 「おれが行く。ロビンに触るな」 荒々しい声が回廊から近づいた。一瞬、誰の声かわからなかった。キースだ。 「おれが行く。おれひとりでいい。ロビンは被害に遭った。なんで被害者を罰するんだ。間違っているだろう!」 キース、とアルフォンソの声が追ってくる。ふたりがもみ合うのがわかった。 「キース、――キース。だめだ」 アルフォンソがエリックを呼ぶ。エリックがキースを叱りつけ、引きずっていった。 アルフォンソが近づいて、言った。 「わたしが」 アクトーレスは鼻息をつき、さっさと並べ、と言った。 アルフォンソがおれのとなりに手をつく。「大丈夫かい」 おれはおどろき、彼を見た。彼は優美なからだをかがめ、首輪ひとつで犬の姿勢をとった。 (なぜ? なぜ、彼が) いきなり、目の前にプラスチック板が投げ出される。 「咥えろ」 アクトーレスが命じた。板には『不貞』と大きく書かれていた。 アルフォンソが首をのばし、板の端をくわえる。首をひねって、おれを見た。 濃い青の双眸がじっと見ていた。 おれは泣きそうになった。黙ってその端をくわえる。 「ご主人様はおまえたちに失望している」 アクトーレスは言った。 「ロビンは主人を裏切り、アルフォンソは犬の身分を忘れて、会員に復讐を企てた。おまえたちは、ご主人様の犬にふさわしくない。邸から出ろ」 鞭が鋭く一閃した。「早く!」 いつも歩く通りが別世界に見えた。 四つん這いの手足に、通りは広大で鉄板のように熱い。通りを歩く人々が異様に大きく、おそろしく見えた。 お仕置きの風景は珍しくないはずだ。なのに、人々は看板をくわえて歩くおれたちを好奇の目で見つめた。 「ロビン。前を向け」 背後から怒鳴り声が打つ。 おれは罪状を書かれたプラカードを噛みしめ、必死に前を向いた。 見ないようにしても、見物人の不躾な目が見える。ひとのからだを物色する気配がわかる。その視線にはらわたがちぢみあがり、吐き気がやまない。 一瞬、アルフォンソの肩があたる。 アルフォンソは歯に板をくわえたまま、暑くてたまらぬというように荒い息をしている。 アルフォンソの存在はせめてもの救いだった。彼が隣にいなければ、おれは身動きならなくなってしまうだろう。 商店の多い通りに入ると、おれはいよいよすくみあがった。見物人はすぐそばに寄ってきて、おれたちを眺めた。 裸がひどく意識された。尻の穴まで見られていると思うと、ひざがちぢんで動かせなくなる。 ――しっかりしろ。はじめてじゃない。前も四つん這いで連れまわされたじゃないか。 だが、パニックはたつまきのように膨れ上がった。大地が浮き上がる。布のように揺れる。 黒いものがおれを見ていた。蜘蛛の巣でからめとるように視線が取り囲んでいる。手を伸ばし、おれの首の根を掴もうとしている。 「ロビン!」 怒鳴られても、打たれてもだめだ。にわかに酸素が薄くなってきた。おれは必死に喘いだ。こわい。息が入ってこない。 (行けない。おれ、行けない――) 唐突に、アルフォンソの黒い頭がのめった。ごろりと地面に倒れて、くるしげに言う。 「水、ください」 意外にもアクトーレスは聞き入れ、商店のひとつに入った。 「ロビン」 アルフォンソが倒れたまま、ぬっと手を差し出した。「棘が刺さった。抜いてくれ」 それどころではない。おれは身震いするように首を振った。 「おれ、帰る。とてもダメだ」 「たのむよ。痛くて手をつけない」 アルフォンソはしつこかった。指の長い手のひらは細かく擦り剥けていた。土がついていたが、どれが棘かわからない。 「真ん中へん。着くと痛いんだ」 そこは土もついておらず、きれいに見えた。「棘はない」 「あるよ。ちゃんと探して」 しかたなく目をこらしていると、目の前に皿が置かれた。 アクトーレスがペットボトルから水を注ぐ。 「まったく、ひと休みが早いな」 地面に置かれた皿に水が満たされた。アルフォンソが顔をつっこむ。彼は咽喉を鳴らして飲むと、ひっくりかえって場所を開けた。 おれも同じように水を飲んだ。渇いたからだに水分が掻き取られるように沁みていく。頭にのぼった血さえ、少し冷えて人心地がついた。 アクトーレスが皿を返しに行く間、アルフォンソは往来にあおむき、目を閉じたままでいた。 おれは聞いた。 「アル、なんで、あんただけが」 「クジ」 アルフォンソは目をとじたまま言った。「ご主人様が悪い子三人にクジを引くよう言ったんだ。ひとりが罰。あとのふたりは何もなし」 「え?」 おどろいて聞き返した時、通行人のひとりが立ち止まった。 「こいつはあのプレミア犬じゃないか。あのゲームの」 アクトーレスが戻って、そうですよ、と答える。 「何をした」 「ご主人様の不興を買ったのです」 ことがことだけに、アクトーレスは理由を言わなかった。 男もさして理由に興味はないようだ。品のいい口髭に触れ、ふむ、とアルフォンソを見下ろした。 アルフォンソは目をとじたまま、やりとりを聞いている。 「ふてぶてしいやつだ」 と男は言った。 「わたしも罰を与えたいね。鞭を貸してくれんか」 どうぞ、とアクトーレスはあっさり鞭を渡した。 「アルフォンソ。起きるんだ。四つん這い!」 「いや」 男は言った。「手を頭のうしろに組んで、こちらを向け」 おれは男を見上げた。男は微笑みを浮かべて待っている。 アルフォンソがのろのろと長身を起こす。言われたとおりに、彼は頭のうしろで手を組み、無防備な腹をさらした。 男の微笑が消えた。と思うと、その腕が激しく叩きつけられた。 重い音が鳴った。 アルフォンソがぐっと顎をひき、歯を食いしばる。一瞬、眼が瞠かれたが、彼は視線をはずして男を見なかった。 打たれた肌にすぐに真っ赤な線が浮きあがった。 男はさらに腕をふりあげた。 叩きつけ、引く手で引き裂くように打ちつける。一打、一打、斧を叩き込むような激しさだった。 「クッ――」 アルフォンソの咽喉がのけぞりかかる。瞠かれた眼から涙が落ちる。 おれは思わず身を浮かしかけた。アクトーレスの手が顔の前を遮る。 「痛いかね。少しは」 男の声は昂ぶっていた。「わたしも痛かったよ。高い金払って、おかしな木馬に乗せられて」 アルフォンソがなにか言おうとしたのだろう。男は平手を打つように鋭く鞭を薙ぎ払った。 長いからだが横様に倒れる。アルフォンソは頬をおさえて呻いた。 「ご主人様」 アクトーレスがさすがに客を止めた。「そろそろ先を急がなければなりませんので」 男は憎悪をこめてアルフォンソを睨むと、鞭を放り捨てて去っていった。アルフォンソは顔を抱え、起き上がらない。 「いつまでも寝ているな」 アクトーレスは靴先で小突いた。「本番はこれからだぞ」 おれたちはプラカードを咥え、フォルムまで這わされた。 通行人が罪状を見て冷笑する。からかう者、足を出して行く手を遮る者、アクトーレスを呼び止めて、からだに触る者もいた。 そばに寄られるだけでちぢみあがってしまう。だが、被害はアルフォンソのほうがひどかった。 有名なプレミア犬が這っているのを見て、男たちは面白がった。アクトーレスにうるさくまとわりついては、事情を聞きたがる。 アルフォンソはたくさんの無礼な手にいじられた。髪をつかまれたり、股を――おそらく睾丸を握られたりしながら、不快そうに黙っていた。 (なんでアルが) おれはとなりで狼狽していた。彼の頬には先に打たれた傷が赤く走っている。柳葉のように切れ、垂れかかった血が乾いて張り付いていた。 フィルの話では、襲撃を言い出したのはキースだったはずだ。エリックは乗ったかもしれないが、アルフォンソはどうか。この賢い男が率先して参加したとは考えにくい。 アルフォンソが罰を受けて、あとのふたりはいったいどんな気持ちでいるのだろう。 フォルムに着くと、もっとおそろしいことが起きた。 アクトーレスはおれたちをフォルム中央に近い、ヘラクレス像へ進ませた。 このヘラクレス像は天秤棒をかついでいる。本来、天秤棒の両端には、彼が退治した山賊兄弟がひとりずつ吊られているはずだが、兄弟の像はない。 アクトーレスはおれたちをこの天秤棒に吊るした。 両手首をひとまとめに吊られ、爪先が地面から浮く。手首に全体重がかかって抜けるように痛んだ。 アクトーレスはさらに、膝にも枷をつけはじめた。気づいておれはあわてた。 「やめて、やめてください! おねがいです」 足を躍らせて暴れた。だが、アクトーレスはふたつの膝の上をそれぞれ枷で締め、それらの間に硬い棒を渡した。棒がはさまり、膝を閉じることができない。 おれはあえいだ。風に巻き上げられるように骨が浮いた。 「どうか……」 ギャグが噛まされ、言葉が塞がれる。アクトーレスはそれを留めながら、 「おまえは犬だ。ただの牝犬だ。それを理解するんだ」 彼はうすいゴム手袋をつけ、チューブのクリームを指にのせた。それはするりと肛門のなかにもぐりこんだ。 (!) 指に色気はない。ただこれから起こることを教えるように、たっぷりぬめりを塗りこんでいった。 |
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