不貞  第10話

 翌日、ご主人様とドムスへ帰った。

「帰ったか」

 迎えに出たエリックはそっけなかった。おれとはろくに目も合わせず、ご主人様と話した。

「アルフォンソが甘ったれて困ったもんです」

 アルフォンソはいち早くドムスに戻っていた。ご主人様もすでに彼に会ったらしい。

「何かっていうとケツが痛えの、顔が痛えのってベッドから起き上がりません。キースはあんなだし、昨日も今日もおれとミハイルが飯作ってんですよ」

「キース、どうかしたのか」

 おれが聞くと、エリックは手を振った。

「たいしたことない。おまえが帰ってきたんだ。治るだろ」

 ご主人様はキースの部屋に行く、と二階へあがった。おれは残ったエリックに笑いかけた。

「おれ、えらい目にあったよ」

「そうだってな」

 エリックはあいかわらずこちらを見ない。

「やっとお赦しが出て帰ってきたんだぜ。もっと再会の喜びを現してくれてもいいんじゃないの」

 甘えるな、と彼はキッチンのほうへ行った。
 おれは追わなかった。エリックの目に元気がなかった。彼もこの間、平気でいたわけではないのだ。

 おれはアルフォンソの部屋をたずねた。

「ミハイルはもっと柔かくならないといけない」

 アルフォンソの声がきこえる。「人はほんのちょっとのやさしさで、立ち直れるんだ。地球を救うのはほんのちょっとの」

「いい加減にしろ」

 ミハイルの声がにがりきっている。「粘ったって、誰もそういうサービスはしないんだ。喰わないなら、下げるぞ」

 おれは中に入った。

「なに、食べさせてくれとか言ってんの?」

 ミハイルがはっと振り返る。

「ロビン」

「ご主人様もいっしょだよ。今夜はおれ、作ろうか?」

 ミハイルはうすく口を開いて、おれを見つめた。まるで戦地から帰ってきた息子を見るようだ。

「――大丈夫か」

 おれは大丈夫だ、と答えた。

「ミハイル。たくさん心配かけたね。おれ、もう大丈夫だよ」

 ミハイルは、ならいい、と言った。それきり言葉が出ない。
 彼は微笑み、「今日はぼくのマズいカレーだ」と言って出て行った。

「ロビン」

 アルフォンソがベッドから身を起こしている。当然のように両手を伸ばしていた。
 おれはタックルをかけるように彼の腕に飛び込んだ。

「おッ」

 アルフォンソが声をたてて笑う。「男恐怖症、治ったな」

 おれは涙ぐみそうになった。

「詫びの言葉もないよ。アル、すまなかった」

「なんの。あとひとつキスしてくれたら、それでチャラだ」

 おれは笑ってからだを離した。
 アルフォンソは頬にバンドエイドを貼り付けていた。

「その傷、深いのか」

「すぐ治る」

 彼は微笑った。「怪我はとっとと治すことにしてるんだ。じゃなきゃフェンサーなんてやってられない」

 おれは彼のベッドに腰をおろした。

「アル」

「?」

「クジなんてウソだろ」

「ホントだよ」

 アルフォンソは笑った。「ご主人様に聞いてみてごらん」

 おれは彼の手をとった。指の長い大きな手だ。手のひらが少しささくれていた。

 クジは本当にあったのかもしれない。ご主人様は命じたのかもしれない。
 だが、アルフォンソはインチキしたか何かで、自らあそこへ来たのだ。

 この賢い男は、たぶんご主人様の意図を知っていたのだとおもう。罰以上の意図を知って、自分がふさわしいと思ったのだろう。
 なんにせよ、彼は覚悟してやってきた。辱められ、這いずりながら、おれが吹っ飛ばないように、となりで抱え込んでいた。

 ――なんてやつだろう。

 おれは彼の手に、そっと唇をつけた。

「うれしいね」

 アルフォンソがニヤニヤ見ている。

「お返しに、こちらからもキスを」

 おれは彼の手を離した。

「これでチャラだ」

「ええ!?」

「いろいろ聞きたいことあるんだよ。――キースはいったいどうしたんだい?」

 キースは部屋に軟禁されていると言った。エリックと喧嘩したってことになってる、という。

「ホントのところは」

「ドムスを抜け出そうとして、エリックにつかまった。――きみを助けにいこうとしたらしい」

 おれはうめいた。

(あのおとなしい男が)

「キースはきみのファンなんだ」

 アルフォンソはやさしく言った。「きみがかわいいんだ。兄貴みたいな気持ちでいるんだよ」

 そうだろうか。
 なにか違和感がある。

 おれは地下の世界を思った。おれをいじめた赤毛の犬の面影が浮かんだ。




 夕飯にはフィルも加わった。
 ご主人様を囲んで、全員そろっての食事だ。

 食事のはじまりは、ご主人様も含めて妙に皆、硬かった。スプーンの音だけがカチャカチャ響いた。

「あいかわらず、マズイな。ミハイルのカレーは。味に深みがない」

 フィルが口火を切った。ミハイルは涼しい顔をして、

「エリック、意見は」

 エリックはじろりとフィルを見た。

「当方はカレー専門店ではございません。うまいカレーが喰いたかったら、ドムス・レガリスにお帰りください」

 エリックの制作だったらしい。フィルは意外そうに、

「これエリックの? いや、うまくなったな。エリック」

「おまえ、ホントに腹立つ男だな!」

 笑いが出て、みな緊張がとけた。

「ご主人様」

 アルフォンソがふくみ笑いして、

「カレーには精力増進スパイスがたくさん入ってるそうです。今夜、われわれは精力増進してますが、どうします」

「きみは具合悪いんだろ」とミハイルが冷かに言う。

「具合? もういいよ。きみが口うつしで昼飯食べさせてくれたから」

 ミハイルはむせかけた。

「アルフォンソ、ショックだよ」

 おれは眉をしかめた。「おれにキスをせがんでおいて、ミハイルに手を出してたなんて。おれ、もてあそばれて、もう立ち直れない」

「ロビン、待て」

「というわけですから、ご主人様。今夜はおれのとこにどうぞ」

 すぐにブーイングの嵐が起こった。
 ご主人様は、ノー、と笑い、愛撫の最中にグウグウ寝てしまう子はダメだと言った。

 あわわ。「いや、あれは――」

 エリックがすかさず自分を売り込む。それにフィルが抗議する。アルフォンソが茶々を入れる。
 にぎやかな笑い声のなかにいて、不意にひどくせつなくなった。水で飲み下したが、飯が入っていかない。

「ロビン?」

 フィルが見つめている。おれは笑いながら、

「なんか涙もろくなっちゃって。年寄りみたいだな」

 だが、やはり泣いてしまった。

「飯、食えなかったんだ。地下で。――食べたら、帰れなくなる気がしてた。結局、喰ったけど」

 バカみたいだな、と笑った。「ごめん。食べよう」

 そういう話あったな、とアルフォンソが言った。

「ギリシャ神話の、誰だっけ」

「ペルセポネだ」

フィルが応じた。「大地の女神の娘だ」

 どんな話かたずねると、

「冥界の王ハデスに見初められ、拐されるんだ。娘は冥界に住むのをいやがるんだが、ハデスになにか果物をもらって食べてしまうんだよ」

 それで地上に戻れなくなる、と言った。
 キースがはじめて目をあげた。

「それで死ぬまで冥界にいるのか。彼女は」

「彼女は冥界の女王になる」

「いや、戻れるんだよ」とアルフォンソが言った。

「果物を三つ食べてしまうけど、彼女の母親の尽力で戻れる。でも、誘拐したハデスがごねるんで、そのたべた分の月だけ冥界で暮らし、あとは地上に帰る、という取り決めになるんだ。母親は彼女がいない三ヶ月、嘆き悲しむので、その数ヶ月は地上は冬になりました、というわけさ。母親は大地の女神だから」

 へえ、とミハイルがアルフォンソを見つめた。

「そういう教養もあるんだな」

「見直した?」

「精力増進の教養だけかと思った」

 また笑い声が起きた時、来客の呼び鈴が鳴った。ミハイルがすぐ立ち上がり、応対に出て行った。

 彼はすぐに戻り、「家令が来た」と告げた。
 家令はダイニングに通された。テーブルを見渡し、

「わんちゃんたちもそろっているようですね。ちょうどいい――申し上げます。暴行事件をおこした三人の会員がアメリカで逮捕されました」



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