犬狩り  第21話

 リッチーは言葉をうしなった。
 青い目がなつかしげに彼を見ていた。あの野良犬の目だった。はらぺこで、意地っ張りで、頑固。彼のやさしい野良犬がそこに立っていた。

 リッチーはあえいだ。

 ――ありえない。

「やっと見つけた」

 レフはよわよわしくわらった。青い眼がうるんでいた。

「ずっと探してたんだ。リッチー」

 リッチーはぼんやりした。
 レフが洟をすすり、笑っている。笑った目から涙があふれた。洟をすすり、唇をふるわせた。

「リッチー――」

 夢のなかに住む男がそこにいた。朝、目を醒ますと消えている幸福のさびしい幻が、そこで子どものように洟をたらし、むせび泣いていた。

 ――でも、ありえないんだ。

「二度と会わないと言ったはずだ」

 リッチーは感情をあらわさず、言った。

「次は殺すと」

「聞いた」

 レフは泣きながら、うなずいた。

「殺されてもいいよ。その覚悟で来た」

 言葉はハンマーのようにリッチーを打った。

(レフだ。おれのばかなレフだ)

 愚かな恋人がそこにいた。勘違いして、客の前に飛び込んできた、ふるえながら銃をかまえていた、哀れな恋人が彼の前に立っていた。

(レフ……)

 笑うレフの顔が痩せていた。長旅をしてきた野良犬のようだった。金回りがよくなり、こざっぱりしたものを着ているわりに貧相で、やつれて見えた。疲れ果て、やせこけ、それでもけなげに尾をふってリッチーを見つめていた。

「待ってくれ」

 リッチーは必死に自分を制した。

「あんたがおれを探せるはずがない。おれの居場所をどうやって知った」

 ああ、とレフは涙をぬぐった。

「だれも教えてくれなかった。だれも。そんな組織はない。探す前に殺されるぞって。それで、最後に『エクソダス』の人たちに会って、やっと助けてもらえたんだ」

(エクソダス――?)

 リッチーはうっすらと口を開いた。

(ああ、そうか)

 絵が見えた。ああ、そうか、とリッチーはかなしんだ。

「スパイしてこいって言われたのか。おれに近づいて、ミッレペダの情報を吸い取ってこいって」

「そうじゃないさ」

 レフは目を丸くした。「あのひとたちはボランティア団体なんだ。ヴィラ・カプリに誘拐された人たちの親兄弟が」

「おれは誘拐されたわけじゃない。ミッレペダのオフィサーだ。近づけば情報が得られる。居場所を教えてやるからスパイしてこいって言われたんだろう?」

 レフは面食らったように、立ち尽くしていた。

「そういう風にとられちまうのか――」

 ふたりはたがいに言葉をなくした。夢から醒めたように、空気が急速に冷えていた。

 リッチーはみじめだった。レフの目にうつる自分が、卑しく、うす汚れているように感じた。

 やはり境界があった。目の前にいても、ふたりの間にはふかい谷が落ちている。
 レフが対岸で、ぼう然とリッチーを見ている。青い目は先の感激をうしなって、とまどっていた。

 ふいに小さな声が鳴いた。

「ああ、こいつがいた」

 レフが思い出して布カバンに手を入れる。取り出した毛の玉がミイミイせわしく鳴いていた。
 仔猫だった。まだ手のひらより少し大きいぐらいである。針のような牙を見せて、細い鳴き声をしきりにあげた。

「きみにこいつを受け取ってもらおうと思ったんだ」

 さかんに鳴く小さな鼻づらに唇をつける。

「リッチーって言うんだ。漫画と柄はちがうけどな。友だちがくれたんだが、おれはこの国を離れるから」

 彼は仔猫を差し出した。

「もらってくれないか」

 リッチーは小さな生きものを見た。真っ白な毛の玉が、さかんに鳴いていた。
 レフの意図がわからない。

 リッチーは背をむけ、車に戻った。ダンテがすぐに助手席におさまった。
 逃げるように車を出す。

 一度だけ、リッチーはバックミラーを見た。腕に小さな毛の玉をのせて、ぼんやり立っている背の高い男の姿が見えた。
 



「調べのほうはどうだ」

 プレスコットの顔色が悪かった。
 葉巻を吸っていたが、以前のような気取ったしぐさではない。酸素が足りないかのようにせわしく吸った。

 ダンテはひとりでプレスコットと会った。リッチーは『一日だけ休みをくれ』と連絡し、同行していない。

「捜査はお休みです」

 ダンテは皮肉を言った。「コロラドの意味がわからなくてね」

 プレスコットはじろりと見て、ポケットから白いものを出した。封書であった。

「予告状だ」

 彼はそっけなく言った。

「コロラドのアスペンは、わたしがイスマエルを連れて行った場所だ」

(くそったれ。やっぱり持っていた――)

 ダンテは憤然とハンカチを出し、封書を取った。イスマエルのメッセージだった。消印はやはりコロラドのアスペン市、日付は四月四日。住所もシールにタイプされ、肉筆はない。

「むかし、あれがスキーが得意だというから、連れて行った。何度か。あの頃はやつを可愛がっていた。あの場所を知っているのは、わたしとイスマエルだけだ」

 ダンテがおどろいて見返す。

「では、イスマエルが――」

 だが、とプレスコットはわずかに首を振った。

「イスマエルが死んでいるとすれば、知っているのはビンゴ。そして、息子のトリスタンだ」

 あいつはイスマエルと寝た、とにがい声で言った。
 息子がイスマエルの幽霊と見せかけるために、コロラドから投函したというのである。
 プレスコットの目は冷たかった。

「あいつのやりそうな小細工だ。あいつはイスマエルの仇をとるつもりだ」

 ダンテはビニール袋をもらえないか頼んだ。「息子さんの指紋の残っているものはありますか」

 プレスコットは、トリスタンが以前使っていたノートを持ち出してきた。

「あいつでなければと思っていた」

「親ならば当然です」

「だが、モンタンを殺した現場にいた。もう間違いない」

「現場には来ましたが、犯行推定時の午前中には、奥様とお会いしていたと言っています」

「ソフィは信用できん!」

 プレスコットは歯を剥いた。

「あの女はいつだって、ぼうやぼうやだ。ぼうやが道行く人の首を刈って歩いても、知らんと言い張るだろうさ」

 彼はダンテに言った。

「やつを始末しろ」

「息子さんをですか」

「やらなければ、わたしがやられる」

 暗い眼だった。
 セリエが死に、モンタンが死んだ。プレスコットはもはや体裁をかまえなかった。

 ダンテは、自分たちは会員の雇われ暗殺者ではない、と説明しなければならなかった。

「ヴィラの会員を殺害し、当会の信用を損ねた犯人と確定すれば、息子さんは制裁されます。ご主人さまが嘆願しても制裁されます。とにかく、確証がとれるまでお待ちください」

 ダンテは父親に言った。

「冤罪だった場合、殺ってからでは、とりかえしがつきませんので」




 リッチーはシカゴにいた。
 シカゴの高層ビル街に小さな教会があった。目立たない場所にあったが、信仰のために時間をとれないビジネスマンが、数分の神との対話を求めておとずれる。

 その教会には時折、別の目的の人々が集まっていた。

「グリーンウッド神父!」

 リッチーは聖堂に踏み入り、荒々しく若い神父を呼びつけた。
 神父はすぐに現れた。

 人目を引く美貌の男だった。背が高く、痩せ四肢で、すんなりと長い手足をしている。黒い僧衣に白い顔がよく映えた。

「主ではなく、わたしに御用ですか」

 微笑んで言い、リッチーの前に立った。
 細面の肌が白く透きとおっている。グリーンの双眸がヒスイを思わせるほどに濃く、しずかだった。

「レフ・フォルトフをミッレペダに近づけたのはどういうわけだ」

 リッチーはけわしく睨んだ。

「エクソダスは協定を破るのか」

 この教会には別の顔があった。
 ある日突然、息子や夫を連れ去られた人々が、警察にも私立探偵にも相手にしてもらえず、ようやくたどり着くのが、この教会だった。

『エクソダス』という。

 エクソダスはヴィラから誘拐された人々を連れ戻すために作られた。この年若いグリーンウッド神父が取り仕切っている。

 ミッレペダはこの敵対組織にふしぎな対応をした。
 潰さなかった。潰さないかわり、その活動をヴィラの法の定める範囲内にとどめさせた。

 エクソダスが犬を取り返す場合は、主人と交渉することになる。もし主人がそれに応じ、さらに身代金のやりとりがあって、はじめて犬の解放を認めていた。
 莫大な資金が必要だったが、この組織を応援する厚志家も多く、いくつかの交渉を成功させている。

「あなたはシェパードさんですね」

 神父は相手をミッレペダの人間と知り、なにが起きたかさとった。

「わたしはフォルトフさんをあなたに近づけたのであって、ミッレペダに近づけたわけではありません」

「ごまかすな。おれに近づけて、こちらの内情を探ろうという魂胆だろう! こっちが甘い顔していると思って、ずいぶんなめたマネをしてくれるじゃないか」

 リッチーには上がなぜこの組織を残しておくのかわからなかった。ヴィラの被害者は年々増え、減ることはない。彼らが連帯すれば、この組織はやっかいな火種になるはずである。

 ――もうその芽が出始めているのではないか。

 ミッレペダ要員の住居までつきとめている。この組織の成長ぶりが不気味だった。
 神父は微笑い、長椅子の端に腰をおろした。

「フォルトフさんと話はしましたか」

「――」

「話さなかった。聞かなかったんですね」

 哀れむように言った。

「彼は病気なんです」

 ヒスイの眸を向け、

「ガンなんです」

 と言った。
 リッチーは神父を見つめ返した。一瞬、何を言われたかわからなかった。

「肺ガンです。すでにほかの臓器にも転移して、あと半年の命だそうです」

 根が断ち切られたように、よろけた。リッチーは椅子の上にへたりこんだ。

 ――うそだ。

 だが、レフはたしかに痩せ、やつれていた。笑ったとき、骸骨が透けて見えた。
 異常な痩せ方だった。
 神父はやさしく言った。

「あの方は懸命でした。――お話をうかがうと、どうも、身内を誘拐されたわけじゃない。その件については、わたしどもではお手伝いできないと申し上げたのですが、そしたら、事情を話してくれたのです。レントゲン写真まで持参して――」

 ヒスイの目がしずかに見つめた。

「死ぬ前に会いたいと言われたら、お教えしないわけにいかないでしょう。教会へ哀れみを求めて来られたのですから」

 ミッレペダを探らせるつもりはありませんよ、と言った。



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