犬狩り  第22話

 (レフ――レフ)

 リッチーは駐車場の車の間を、追い立てられるように歩き回った。
 車の窓をひとつひとつをのぞいて、猫を抱いた男を探す。昨日レフがいた場所を何度も歩いた。

 いるはずがなかった。だが、リッチーの思考は浮き上がってしまっていた。動かずにいられず、なにも考えられず、ネジで巻かれたようにおろおろと探した。

 レフは昨日、この駐車場に立っていた。彼を見て笑っていた。笑い、鼻を赤くし、子どものように洟をたらして泣いていた。

(あれが、二年ぶりの再会――最後の再会――)

 どの車にも、レフはいなかった。スーパーの店内にもいない。
 リッチーは車の間に、くずれるようにうずくまった。

(レフ。嘘だって言ってくれ)

 けたたましくクラクションが鳴る。リッチーはのろのろと立ち上がり、顔をあげた。

 目の前のスーパーマーケットから、いましも背の高い男が出てくるところだった。店員らしき男が続く。

「すみません。法律がうるさいんで」

「いいよ。こっちが悪いんだ」

 レフはあやまり、布カバンをかついで出た。すぐにカバンの蓋をひらいて、中に何ごとか話しかける。

 レフはふいに顔をあげ、リッチーに気づいた。
 あっけにとられ、やがて、その顔がやわらかく歪んだ。

「リッチー」

 リッチーは地面を蹴って、レフの胸に飛び込んだ。
 レフのからだは細くなっていた。胸から肉が抜け落ちていた。骨の感触に、リッチーは慄いた。

「うそだ。いやだよ。治るんだろ。治るんだよね」

「リッチー」

 レフはリッチーの髪に頬ずりして、言った。

「また会えてうれしい。本当にうれしいよ」

 リッチーの耳のそばで仔猫がさかんに鳴いていた。



 
 レフはボストンにほど近いレキシントンに小さな家を借りていた。

「友だちの家」

 彼はこぎれいな居間にリッチーを招き入れた。家主は家庭人らしい。海外に出ているという。

「ふしぎだな。金ができると、金使わなくなるんだ。金なんか払わなくても、なんでも間に合うようになるんだよ。――座ってて。こいつにミルクやらなきゃ」

 レフは仔猫をリッチーにわたし、キッチンに行った。

「スーツ脱いで。毛がつくよ。こんなちびのくせに抜け毛がすごいんだ。ノミがいるのかな」

 ミルクの皿を持って戻ってくる。

「きみは何飲む?」

「いいよ」

 リッチーはソファから手をのばした。恋人の腰をつかみ、座らせる。

「おれ、病気のこと、あんまりよくわからないんだけど」

 リッチーは咽喉のつかえをこらえながら言った。

「いま、治療法っていろいろあるんだろ。ガンって」

 あるよ、とレフはやさしく言った。

「放射線とか、抗がん剤とかな。――でも、おれはやんないよ」

「どうして」

「ハゲるから」

 青い目が笑い、指の背でリッチーの頬に触れる。
 リッチーは涙ぐみそうになり、目をそむけた。

「ハゲてもいいから受けろよ。手術とか。なんかあるんだろ」

 レフは彼の肩を抱き、額を寄せた。泣くな、とささやく。

「泣かないでくれ。そんなおおげさな話じゃない。ただ咳が出る。息が吸いにくくなった。やがて、死ぬ。それだけだ。おれはそのことはもうなんとも思わない」

 いや、よかったと思ってる、と言った。

「尻に火がついたから、こうしてきみに会えた」

「あんまりじゃないか!」

 リッチーはやはり涙をこぼした。

(おれは? おれの気持ちはどうなる。あんたはおれを奴隷商人だって言ったんだぞ。愛して、家族になろうって言って、断罪して、めちゃめちゃにしたんだ。今さらなんだよ。いまさら)

「手術受けろよ」

 リッチーは涙をぬぐった。

「会って、いきなりガンだなんて、あんまりだよ」

 レフの青い目がぼんやりと見つめる。
 彼は不意にリッチーの首をつかみ、おおうように口づけた。
 リッチーは夢中でその舌を吸った。

 ソファに押し倒され、レフの背を強く抱きしめる。耳もとにレフの息を感じた時、リッチーは、ミネアポリスのアパートのにおいを嗅いだ気がした。インクのにおい。名もないウェイターと、マンガ家志望の男との小さな生活のにおい。

 なんの警戒もいらない、素朴な暮らしがあった。痩せたマットレスの上でふざけていた。みすぼらしいほどにちっぽけなふたりだった。

 リッチーはきつく眉をしかめた。
 かなしみのなかで、からだの芯があたたかい。ぼろぼろのからだに光が注がれていた。
 一方、恨めしかった。レフの細いからだにつかまり、蜃気楼を抱くように不安だった。
 リッチーは歓喜のなかで神を恨んだ。




「ガンか」

 ダンテは情けない声を出し、肩を落とした。力がぬけ果てた。
 同情からではない。

(ニーヴスには勝てる。でも、病気のレフじゃあ――)

 彼はやりきれず、うめいた。美しい恋人はもう自分のものにはならないと知った。

「この任務はやり遂げます」

 リッチーは言った。

「これを終えたら、おれはミッレペダを辞めます」

「辞めることはないだろう」

 ダンテは思いつめた肩に触れ、「この組織にはいろいろ利点がある。有名な医者にだって近づけるだろ。上に頼んで、ポルタ・アルブスの医者に診てもらうとか」

「いっしょにいたいんです」

 リッチーはさびしく笑った。

「あいつ、何もしないんです。治療もしない。抗がん剤も飲まない。死にたいと思ってんですよ。成功もしたし、お金も親に送ったし、なにも未練はないって。――でも、いっしょにまた楽しくやれたら、生きたいって思うようになるかもしれない。免疫力だってあがるかもしれない。また元気になるかも――」

 声がにごり、軋んだ。
 もう後悔したくない、と言った。

「ダメでも、最後までいっしょにいたいんです」

 ニッと笑った。黒い目が潤み、光っていた。

 ダンテはリッチーの肩を抱きしめたくなった。
 もう何も言うべきことはなかった。リッチーは二年間、迷子になって泣いていた。ようやくほんとうに笑った。遠回りして、いるべき場所をやっと見つけたのだ。

「OK。じゃあ、最後のパーティーをやり遂げちまおう」

 ダンテはプレスコットの手紙の話をした。息子の指紋は出ていない。またアスペン周辺の調査でも、トリスタンのいた形跡は見つかっていなかった。

「あのイヤミなパパの隠し事がわかったってだけの話だ。まあ、思い出の場所から手紙が来たってのは不気味だけどな」

 だが、思わぬ方向に進展があった、と言った。

「あの大女、名前騙ってたよ」

「『カルボ』ではないんですか」

「ああ、本名はリタ・アンダーソン。前科はないが、経歴詐称だな。コルドン・ブルーのディプロマを持っているマリア・カルボって女はすでに死んでた」

 故マリア・カルボと大女は知り合いだった。マリアの名を騙って、就職したものらしかった。
 はたして、セント・ジョンズ・ホスピタルでリタ・アンダーソンの名を出すと、受け付けスタッフがすぐに担当医を教えた。

「アンダーソンさんですか。存じてますよ。息子さんが入院されているんです」

 医者はプライバシーの問題を気にして、病名については言わなかった。だが、モンタンが殺害された時間に、彼女の相談を受けていたことは断言した。

「立派な方ですよ。もう何年も寝たきりの息子さんを看病しているんです。あの日は、新しい治療法を開発した医者のことを紹介してあげたんです」

「もしかして、その医者はニューヨークに?」

「そうです」

 ミセス・アンダーソン―マダム・カルボの突然のニューヨーク行きはそのためらしかった。
 ダンテの目がどんよりとした。

「ひとり潰れましたね」

 リッチーが励ます。「だんだん絞られてきたじゃないですか」

「絞られすぎて、誰もいなくなったさ。犯人はもう、まったく関係のない通り魔なんじゃないのか」

 リッチーは苦笑した。

「関係のない男はイスマエルの名前を知りませんよ」




 リッチーはキッチンに立って、忙しく働いていた。

「メニューは何?」

 背後からレフに抱きつかれる。

「シーザーサラダ。グリーンピースのスープ。キノコのオムレツとキノコのスパゲッティでございます。――ほら、焦げるよ」

 耳もとにキスされ、笑って逃げる。
 レフは椅子を引いてきて後ろに座った。リッチーがふりむくと、仔猫を抱いてニヤニヤ見つめている。

「なに。あんまり見るなよ。緊張するだろ」

「夢みたいだ。またきみのディナーが食える」

「ハハ、前はいつも怒ったくせに」

 以前、リッチーが食べものを持っていくと、レフは迷惑そうな顔をした。金もないのに、払うと頑なに言い張った。

「きみの持ち出しばかりだったからさ――あれは店の残り物なんかじゃなかったんだろ」

「残り物だよ」

「うそつけ」

「残り物だって」

「レシートが入ってたぞ」

 リッチーは声をたてて笑った。

「時効。勘弁して」

 レフも笑った。

「リッチー」

「なに」

「ありがとうな」

 リッチーは、どういたしまして、と答えた。石を詰めたように咽喉が硬くなった。
 レフが言葉を継ぐ前に、できたてのオムレツの皿を押しつける。

「猫は床。ナイフとフォークを並べて。お飲み物は?」

 食事中、レフは何度かむせた。失礼、と横をむいて、はげしく咳き込んだ。
 リッチーはうろたえた。レフの手に血がついていた。

「……食べられないのか? もしかして」

「ちがう」

 レフの声はしゃがれた。

「時間がかかるだけだ。とりあげないでくれ」

 うれしいんだ、とわらった。頬にしわがよった。

「またきみと飯を食えてうれしい。夢みたいだ。涙が出そうだ」



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