ジョーディの旅 第3話

「熱ッ! 熱ッ!」

 沸騰した冷却水を浴びて、クロリスは飛びのいた。
 ラジエーターキャップを開けた途端、高温の溶液が破裂したように飛び散ったのだ。

 クロリスは悲鳴をあげながら、顔と手についた緑色のものを拭い取った。皮膚がひりひりする。火傷していた。
 気に入りのシャツも、緑のものでまだらに染まっている。

「ああ神様。もういや!」

 彼女は涙ぐみそうになった。

(最悪! なんでこんなひどいことばっかり起こるの! ああ、もう生きてるのがイヤ!)

 老いぼれのシボレーが憎かった。新車を買えない自分のケチさがまた腹立たしい。

(買えるわけない。だって、あたしは最後まで自分の人生を面倒みなきゃならないんだから)

 そう思うと、今朝のショックが思い出され、また鼻の奥が湿っぽくなってくる。

 昨日、彼女は七十の誕生日を迎えた。
 一日待ったが、誰からの電話もなかった。息子や孫からのプレゼントも、カードもなし。
 今朝もポストを見たが、空だった。

 クロリスはアッパーカットを食らったように感じた。
 七十歳。七十年の人生が、このポストだとおもった。誰からも気にかけられない無用の存在。

 涙が湧いたが、泣くのはいやだった。
 彼女はなぐさめを求めて、牧師館に車を飛ばした。

 だが、神様さえ、本日はお留守だった。牧師は風邪をひいて寝込んでいた。

(……家で泣くしかない)

 結局、それしかなかった。泣こう、と思いながら、オンボロのシボレー・インパラを走らせた。
 そして、車さえ、止まった。

(ちくしょう! ここで地面を掴んで、泣けっていうの?)

 それでも、彼女は処置した。やけどしつつ、サブタンクに水を注ぎ込んだ。
 冷めた頃を見計らって、エンジンを再度かけたが、うんともすんとも言わない。もはや、手に余った。

「神様、いいかげんにして! そんなにあたしが憎いんですか?」

 空に向かってわめいた時だった。
 道路に、さっきはいなかったはずの人影がぽつんと歩いてくるのが見えた。




(あら、男の子。ラッキー)

 クロリスはさっそく彼に修理をさせようと考えた。

 陽射しの下、若い男がとぼとぼとアスファルトの上を歩いてくる。ハイキングにしては軽装だった。帽子すらかぶっていない。
 クロリスは温顔をつくって、若者を待った。

「ハイ」

 若者はクロリスを見たが、何も言わない。そのまま歩きすぎようとした。

(ちょっと! 女性が困ってるのよ)

 クロリスは声を張り上げた。

「あの、車が動かなくて困ってるのよ。助けてくれない?」

 若者ははじめてふりむいた。アイスブルーの目がじっと見つめる。

(あらやだ。この子)

 クロリスはやっと異常に気づいた。
 若者の目は美しかったが、表情がなかった。彼女の言葉を理解している様子はない。あきらかに正気ではない。

「あ、やっぱり、いいのよ」

 クロリスは手を振って、帰らせようとした。
 だが、若者は車に近づいた。

「いいの。本当にいいの」

 クロリスはあわてた。
 この男はおそらく薬物中毒だ。それでこんなへんぴな場所をひとりで徘徊しているのだ。いきなり噛みついてくるかもしれない。

 不意に若者は屈み、落ちていた工具箱からレンチをとった。レンチを握り、じっと立ち止まる。

(!)

 クロリスは血の気が引くのを感じた。

(銃。銃)

 ダッシュボードに拳銃が入れてあったはずだ。
 運転席に飛び込み、ドアをしめた。しかし銃はなかった。

(ない? ない? どうして? 死ぬ。殺される)

 若者はあいかわらずレンチを見つめていた。
 クロリスの手はふるえた。パニック映画などで、暴徒が窓ガラスを割って侵入してくるシーンが思い出された。

 しかし、若者はボンネットの陰にもぐりこんだ。
 若者――ジョーディは壊れた車に惹かれるように動いていた。

 ジョーディの心に何か変化があったわけではない。
 だが、彼の目と手は、遠い軍隊時代の仕事を覚えていた。

 見たところ冷却系に問題はなかった。手が勝手にプラグカバーを取り外した。
 プラグコードに欠損は見当たらない。が、点火コイルを見た時、ジョーディの手は原因をさとった。

 コードが切れている。
 それをつなぎ、元の場所に戻した。ボンネットを閉め、運転席の老婦人を見つめる。

 クロリスは若者がまたドアに近づいてくるのを見て、パニックを起こしかけた。
 夢中でキーをまわすと、エンジン音が響いた。

(いまだ)

 彼女はアクセルをぐいと踏み、車を急発進させた。
 古いインパラは飛び出した。眠りから覚めたように走った。

(ああ、怖かった。ああ神様! 死ぬかと思った)

 彼女はあえいだ。死んだ夫の工具を置いてきてしまったが、命にはかえられない。とにかくいまは逃げることだ。
 我が家の門を見て、はじめて彼女は息をついた。

 はたして、見ず知らずの人間に車を直してもらったのだ、という事実に気づいたのは、お茶を用意してからだった。




(ああ。ごめん。ごめんなさい。――若者よ。どうか、グレないで)

 夕飯の仕度をしながら、クロリスはまだニヤニヤしていた。自分のあわてぶりがおかしかった。

(こんな間抜けなことがあるのね。今度、無線でトラック野郎たちにしゃべろうかしら)

 だが、ふと窓から目にした光景に、笑いが止まった。
 庭のリンゴの木の下に、くだんの若者がしゃがみこんでいた。

 ――なぜ、うちに。

 クロリスはふたたび不安を覚えた。
 親切を無にされて、怒って追いかけてきたのだろうか。

 今度は銃がある。クロリスはいかついリボルバーを手にすると、エプロンの下に隠して庭に出た。

「あなた、ひとの家で何をしてるの」

 若者はしゃがみこんだまま、クロリスを見た。その口はリスのようにふくれている。落ちたリンゴを食べていたらしい。
 彼はぬっと工具箱を差し出した。

(え)

 クロリスは一瞬、言葉をうしなった。
 なにが起きたのか、わからなかった。

 目の前に、ふしぎな存在が座っていた。
 見上げる顔は表情にとぼしい。アイスブルーの目に感情のひらめきは感じられない。
 ただ、それは無邪気にそこにいた。リンゴの木の下で、頬をふくらませ、ただ工具箱を差し出して、彼女を見つめていた。

 クロリスは立ち尽くした。
 リボンをかけたプレゼントを受けるように、工具箱を受け取った。
 クロリスは、若者をじっと見つめた。

「いま食事を作っていたところなの。いっしょにいかが。落ちているリンゴはおいしくないのよ」



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