ジョーディの旅 第5話 |
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(なんでおれが) ハンクは憮然と助手席の客を見やった。 乗客はうつろな目でハイウェイを眺め、ひとことも口をきかない。 ひざの上には、クロリスからもらった古いナップザックを大事そうに抱えている。 「そいつをおろしなよ」 乗客は硬直したように前を見つめたままだった。 (――こういうのは、まずいんじゃねえか?) ハンクはいやな気がした。 乗客は間違いなく精神病患者だ。家はシカゴだという。シカゴからここまでさまよい出たはずがない。 薄着で出歩いていたことからみても、施設にいたに違いないのだ。 ――警察に知らせるべきですよ。 ハンクはクロリスに忠告した。 ――あたしもそれは考えたの。でも見て。 彼女は若者の手首をしめした。そこにはうっすらとケロイドが光っていた。 ――これ、やけどの痕でしょう? もしかして、虐待されて、逃げてきたんじゃないかしら。 もちろん事情はわからないが、本人がシカゴへ行こうとしているのに、警察に通報する気にはなれない、というのだった。 彼女はハンクに、彼を乗せていってくれと頼んだ。 だが、ハンクはシカゴには行かない。すると、途中で長距離バスに乗せてくれればいいと妥協した。チケット代と運転手に見せるメモまで用意していた。 (なんで自分で行かねんだ。ヒマなくせに) ハンクは腹をたてた。 クロリスは亭主の建てた家に住み、貯金で暮らし、リンゴやら花やらを世話する以外に仕事はない。 ただ、不案内な場所で、うろうろバスを探すのがイヤなのだ。 (女ってのは、ババアになっても、面倒は全部、男がやるものだと思ってやがる) 機嫌が悪かった。 たいした用ではなかったが、親切にしたい気分ではなかったのだ。 ハンクは二週間前、幼なじみと会った。 ビールでむかし話をし、たがいの近況を話した。幼なじみは小さな会社を起こし、やっと軌道に乗って来たと言っていた。 ハンクは、へえ、と話として聞いた。 だが、店を出て、駐車場に無造作に停められた高級車を見た時、頬が凍りついた。 店の明かりでアルファロメオが水のように輝いていた。 (やっと買ったんだ) 友だちはゆるんだ顔で言った。十年がんばったからな、と。 ハンクも十年がんばった。 一年中、長いトレーラーを引きずり、北へ南へとハイウェイを駆けずりまわっている。 だが、彼はアルファロメオどころではない。 ふたりの子どもと中古の家のために、財布はがんじがらめになっている。さらに彼の妻は、足が悪かった。もっと軽い義足を欲しがっていたが、中途半端な医療保険ではとてもまかなえない。 ハンクはそのため、マイル数セントの割増の出る危険物を運んでいた。他人に親切にしている余裕はないのだ。 (くそったれ。寝てやがる) ハンクは歯軋りした。左折用のレーンに座り込んでいるワゴン車に、思いっきりホーンを鳴らした。 ワゴン車は釘づけになったように動かない。 追い越し様に怒鳴りつけようとして、子どもの顔に気づいた。 小さな顔が窓に貼り付き、なにごとかわめいていた。 なにか異変が起きている。 ハンクはトラックを停め、ワゴンに駆け寄った。 若い女がドアにもたれていた。失神しているようだ。 「ドアを開けなさい」 三人の子どもたちがドアに取りついた。だが、ロックのかかったドアがあけられずにいる。 まだ小さかった。三つか四つか。おむつをした子もいた。 ようやくドアを開けた時、ハンクの腕に女のからだが倒れかかってきた。 ハンクはハッとした。 女の腹が風船のように膨れていた。 「は? 水がなんですか」 ハンクは指で耳に栓をして、わめいた。 911のオペレーターの声はのんきすぎた。こちらを落ち着かせるためであろうが、足元で子どもたちが泣き喚いていてよく聞こえない。 「いいから早く来てくださいよ! こっちはわからないんですから。ガキが生まれちゃったらどうすんですか!」 『いまそちらに向かっています。女性は破水――』 ママーッ、という叫び声が電話の声を塗りつぶしてしまう。 ハンクはあきらめ、一度電話を切った。自分のトラックに戻り、乗客に頼んだ。 「おまえ、ジョーディ、子守りできるか」 ジョーディはとまどった。何か怒られてるようだが、よくわからない。 ナップザックからリンゴを出して、おそるおそる与えてみた。 男はうんざりとため息をついた。さらにリンゴを与えてみた。 「ああ、いいや。これでいい。もう一個くれ」 男は勝手にもうひとつ取ると、トラックから出て行った。やはり腹が減っていたらしい。 ジョーディはほっとして、ザックを抱えなおした。 気むずかしい男のようだが、怒られなくてすんだのはよかった。グッドボーイのひとことがあれば、もっとよかった。 一方、ハンクはうろたえきっていた。 子どもたちは食べもので泣きやんだものの、ワゴンの後部で母親がおそろしい呻き声をあげている。エクソシストに苦しむ悪魔憑きのような声がしていた。 あまつさえ、言った。 「赤ちゃんが、おりてきてる」 ハンクは耳をうたがった。おりてきているとは? 「赤ちゃんが、もう――」 「待って。待つんだ」 ハンクは電話をかけなおした。 「さっきのハンク・ウォレスです。救急車はどこ行ったんですか? 彼女、もう生まれるって言ってるんです!」 911の声はやはりのんきだった。 『まだいきまないようにいってください』 「自分で言ってくれ!」 電話を母親の耳もとに押し付ける。だが、母親は歯を剥き、グリズリーのような唸り声をあげた。 おそろしい形相だった。食いしばった顎がふるえている。血の気がまったくない。ねじきられるような叫びをあげ、宙を掴んでいた。 ふと、その目から力が失せ、半眼になった。呼吸が遅くなり、からだから力が抜けていく。 ――この女、死ぬんじゃないか。 目の光がにぶかった。白い顔を見て、ハンクは戦慄した。あわてて車道に出た。 辺りはすでに薄暗かった。いくらか車が通っていたが、救急車の姿はまるで見えない。 ――だれか。たすけてくれ。 叫びかけたハンクの鼻先を、セダンがすり抜けるように通り過ぎた。 どの車も帰宅を急いでいた。あるいはどこか目的地へ。 速度をゆるめず、目の前を過ぎていく。どの車にも人が乗っていないかのように、無言で過ぎた。 ハンクはその間で、突っ立っていた。 奇妙な感覚にとらわれていた。 そばに人はいたが、彼らには他人が見えていない。声も聞こえていない。ひとりひとりが透明なチューブの中を移動していくように、たがいに遠かった。 ハンクは別の空間に立っていた。無人の星の上で、ひとり、死とともにとり残されていた。 ふりかえると、自分のトレーラーがあった。ハンクはうすく口を開いた。 そこだけわずかに明るかった。 助手席にあの若い男がいた。 ナップザックにあごをのせ、小さな花のようにひっそりハンクを見つめていた。 |
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