ジョーディの旅 第6話

 ジョーディはワゴンの隅に座り、じっと身を硬くしていた。
 手が痛かった。

 女が彼の手を握り締めていた。尋常な力ではない。爪が食い込むほどに力み、ジョーディの手を握り潰している。

「出た! 出たぞ」

 ハンクは思わず声をあげた。
 女のからだから、ピンク色のかたまりがあふれていた。

 上半身が現れた時、ハンクは目を瞠った。
 それは自分で動いていた。ねじれるようにもがいて、世界に這い出そうとしていた。

「すごい。すごいぞ。なんてガッツのあるやつだ!」

 ハンクは興奮して、その生きものに手を貸した。神聖な真新しい肉体はおそろしくやわらかい。べとべとの羊水で濡れている。
 だが、重かった。しっかりと組織と光が詰まっていた。

「ほら」

 まだへその緒のついた赤子を、宙に掲げた。赤ん坊はヒイと細い泣き声をあげた。

 母親はくたびれはてて、なかば気をうしなっていた。だが、わが子を腕に乗せられると、わずかに口の端にしわを寄せた。

「それ、赤ちゃん? 男? 女?」

 運転席の小さなギャラリーたちが騒ぎ出す。救急車のサイレンがその声に混じった。

(ほうらな)

 ハンクは手をタオルで拭いた。助けはたいがい、不要になってからやってくる。
 ハンクは母親と子どもたちと取り決めをかわし、救急隊員のためにワゴンのドアを開けた。

「遅かったな。途中で買い物にでも行ってたのか」

「母親は無事ですか」

 彼らは新生児を見つけ、手際よく母子をストレッチャーに乗せた。

「とりあげたのは、あなた?」

「まさか。おれは電話しただけだよ」

 隊員はいくつか事務的な質問をした後、ハンクとジョーディを解放した。
 ストレッチャーに続き、子どもたちも救急車に乗り込んでいく。

 救急車はすぐに発車しなかった。ひとりの女の子が抜け出して、ハンクのもとに駆けつけた。

「ママが、おじさんに、いつか来てくださいって」

 一枚の名刺を渡し、すぐにとって返した。シーフード・レストランの名刺だった。
 ハンクはぼんやりと救急車を見送った。疲れ果てていた。

 隣を見ると、ジョーディも同じように車道を見ていた。
 その眠そうな顔がおかしかった。

「行こうか」

 ハンクはジョーディの肩に手をまわした。自然にそうしていた。




 ――とんでもない体験をした。

 ハイウェイの上で、ハンクはまだどこかぼう然としていた。
 動いていた小さい命の塊に打たれていた。悪鬼のように苦しむ母親と、産んだ後のなんともいえぬ満ち足りた顔を思い、なにか泣きたいような気分になった。

(うちのチビどもも、ああやって――)

 そう思うと、女房の声が聞きたくなった。ハンクは携帯電話を出して、彼女にかけた。

『こんな時間にめずらしいわね。どうしたの?』

「いま、面白いことがあったんだよ」

 ハンクは話した。
 話しつつ、妙に彼女が恋しくなった。早く彼女と息子ふたりの顔が見たくなった。

「きみはすごいなって思ったんだよ。あんなやつを二回も産んだのかって」

 彼の妻は可笑しそうに笑った。

『すごい時間差で褒められた。でもうれしい』

 彼女は言った。

『早く帰って来て。英雄にミートローフ作ってあげるから』

「ああ、いいね」

 ハンクは夜のハイウェイを眺めた。となりを見ると、相棒はシートにもたれ、口を開いて寝ていた。

 ――英雄だとよ。

 無防備な寝顔を見て、ハンクは微笑った。
 何を見ても、好ましかった。何を見ても美しい。足りないものはない。すべてを持っているとおもった。

 ――すべて? アルファロメオはないぞ。

 だが、アルファロメオの価値が思い出せなかった。いまの気分より素晴らしいものだったろうか。

 ハンクは成功した幼なじみに電話をかけた。

「やあ、ギル」

『おう。どうした』

「おまえの会社って、たしかベビー用品を扱ってたよな」

『そうだよ』

「三十ドルほど、赤ちゃんにプレゼントを見繕ってほしいんだ」

『え? 注文してくれるの? ワオ! うれしいよ。おまえの子か?』

「バカ、違うよ。住所言うから、送ってやってくれ」

 ハンクは笑い、シーフード・レストランの名刺を読み上げた。




 トラックストップには、何台もの長いトレーラーが溜まっていた。
 ジョーディは朝食の後、駐車場でトレーラーを眺めていた。
 ハンクは別の男と長く話し込んでいる。

「ジョーディ」

 ハンクが呼んでいた。
 ジョーディが走っていくと、ハンクは背の高い男を紹介した。

「こいつはダグ。シカゴに缶詰を届けに行くとこだ。おまえをシカゴに連れて行ってくれる」

 ハイ、と痩せた男が笑いかけた。

「かわいいね。お姉さんはいるかい?」

 ハンクは友人にジョーディを託した。
 長距離バスは治安が悪くて不安だった。この友人は軽薄な男だが、バスよりは確実にシカゴに届けてくれる。シカゴのアシュランド通りまで送ってやると言ってくれた。
 ジョーディはまぶしそうにハンクを見た。

「おれはシカゴには行かないんだ」

 ハンクは苦笑した。

「ここでお別れだ。おまえといて楽しかったよ。なんでかわからんが、さびしいぐらいだ」



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