ジョーディの旅 第8話
  
「この世界では、金のないやつは無価値なんだよ」

 アレンは見知らぬ若い男に言った。

「むかし、男は棍棒をもって、マンモスを追っかけていた。腕力がある人間だけが生き残ってこれた。いまは金だ。金を作れるやつだけが、子孫を残せる」

 若い男は聞いてはいないようだった。ひざにのせた写真を見つめ、指でなぞっている。
 少しふつうではないことは見てとれた。

 ただ、彼は立ち去らなかった。アレンは話し続けた。

「ぼくは生存競争に勝てない個体なんだ。神様はたったひとりのアルファの周りに、そういう哀れな連中を配置するんだよ。精子もそうだろ? ぼくたちは、ちょびっとの才能と、希望をもたされて、世に送り込まれる。アルファに奉仕するためにさ。それをぼくたちは知らないんだ。ぼくたちは自由だと思ってる。がんばれば、アルファのようになれると思ってしゃかりきになって働くんだ。だが、もともとそういう仕組みじゃないんだよ。世界はべつの男を中心に動いている。ぼくたちは、奴隷なんだ」

 アレンはしゃべり続けた。
 夜、ベッドの上で繰り返し思う恨み言が、次々口をついて出てきた。

 ふだん人前で胸の内を明かしたりはしない。
 自分でもみっともない演説だとわかっていた。良識あるひとに言えば、反論されるか、しっかりしろ、と諭されてしまう。

 だが、この若い男は何も口をはさまなかった。理解はしていないが、そこに座っていた。

「ぼくはずっと金を稼いでいた。大学時代からずっと。ただ雇われるだけじゃダメだとわかったから、自分でも会社を起こした。エスニックの家具の会社だ。これはダメだった。あまりに物知らず、スキル不足だった」

 二度目は失敗の経験を生かし、経営コンサルとなった。
 本を出したことをきっかけに名前が売れ、事業は順調に伸びていった。

 しかし、リーマン・ショックで経済界がパニックを起こすと、アレンの会社からも潮が引くように顧客が消えた。
 この会社も精算せねばならなかった。

 借金はなかったが、アレンのまわりには人もいなくなった。家庭もなくなっていた。
 アレンは再起を模索し、疲れ果てた。

「ぼくはさして優秀じゃない。そこそこの力しかない。企業家ってのはタフじゃなきゃダメなんだろうけど、ぼくは百回も失敗したりできない。投資家にひどいことを言われると、へこたれるよ。本当に生きてる値打ちなんかないと思う――」

 思い出して、彼は顔をゆがめた。

「嘘つき、って言われるのが一番つらいんだ。けっこうな経営戦略を教授しておいて、そのザマはなんだって。口に出して言われなくても、クズだと思われてるのはわかる。口先だけの、あてにならない、実のない人間。ぼくは、もう疲れた。金もなくなった。この後は、ホームレスをするしかないが、それはいやだ。もうゴミみたいに扱われるのはうんざりだ。だから、消えるしかないんだ」

 アレンは気づき、振り返った。
 若い男が彼を見つめていた。青い目をまたたかせ、リンゴをひとつ差し出していた。

 アレンは息をつめた。
 目の前に小さな赤い実が光っていた。贈り物だった。

 小さい実には重みと光があった。汁気が張り詰めているように、薄い皮がかがやいていた。
 アレンの手のひらにそっと乗せられた。

 アレンはちっぽけな実を見つめた。歯をたてると、甘い香りがたち、リンゴのやさしい酸味が口のなかをきよめた。

 あごがふるえ、飲み込めなかった。
 嗚咽で咽喉がしまり、入っていかなかった。




 陽が沈みかかっていた。
 アレンはようやくあたりの暗さに気づいた。

 どれほど、座り込んでいたのか。意識が途切れたように、湖の前にいた。
 ずいぶん泣いていた。毒を流し切って、からだは心地よく疲れている。自分が何者かさえも忘れかかっていた。

 ふと、隣を見ると、若い男はナップザックを抱えたまま、寝息をたてていた。
 そのザックに大きな白い布が縫い付けてある。マジックで、何か書いてあった。
 アレンは目を凝らした。

 ――この子はジョーディ。ラロをさがしています。彼をシカゴのアシュランド通りまで連れて行ってあげてください。

 アレンははじめてこの若者が、旅の途中なのだと気づいた。




 ジョーディは寒さに目を覚ました、
 あたりは暗かった。ひざの上の荷物がない。

 月明かりの下に、人影がふたり歩いていくのが見えた。ジョーディのナップザックを持っている。

 ジョーディはザックに写真を入れていた。写真を取ろうと思い、ふたりの影を追った。

「お、起きてきやがったぜ」

「よう、なんか用か」

 ジョーディが手を伸ばそうとした時、相手はいきなりザックを振り回した。
 顔を打たれ、ジョーディは地面に転げた。

 起き上がろうとすると、したたかにわき腹を蹴られた。痛みに内臓がちぢみあがる。さらに尻を蹴られ、頭を蹴られた。
 ジョーディは頭を抱え、小さくなった。

 ふたりは笑っていた。
 蹴るほどに興奮するらしく、何度も蹴りつけた。

「バックパックの旅は危険だってママが言ったろう?」

 片方は、咽喉に穴が開いたようなかすれた声をしていた。

「自分だけは大丈夫って思ったのか。うん?」

 襟首をつかまれ、開いた腹に強烈な蹴りが入る。内臓が潰れ、ジョーディは苦痛と胃液を吐いた。
 倒れた時、地面に落ちた写真が目に入った。月明かりで光っている。無意識に手を伸ばすと、その上を靴が踏んだ。

 泥靴が細い骨を砕こうとにじる。ジョーディの咽喉から細い悲鳴が洩れた。
 その時、暗がりから声が響いた。

「彼を放せ」

 ふたりの影は振り向いた。

「なんだ。てめえは――」

 そう言いかけた時、闇のなかで重い銃声がはぜた。

 ふたりの影は飛び上がった。次の爆音が鳴り響くと同時に、彼らは一目散に駆けた。
 ジョーディも這い上がった。宙を転がるように逃げる。
 新しい声はあわてた。

「ジョーディ。ぼくだ。さっきの――車を取って来たんだ。シカゴへ送るよ」



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