キスミー、キミー 第4話 |
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妙なできごとだったが、リコはほどなくそのことを忘れた。 だが、一週間もしないうちに、彼の客がおかしなことを言った。 「聞いてくれ」 テキーラのグラスを寄せ、ラウルは目に涙を浮かべて言った。 「おれは今日、振られたんだよ」 リコはやむなく、うなずいた。 「キミーちゃん、知ってるか」 「?」 「あの、先週の『トリマルキオ』の小僧、おぼえているだろう」 「ああ」 ようやく、レストラン『トリマルキオ』で起きた珍事をおもだした。 「今日、おれは花をもって、あのワンちゃんに言ったのよ。皿洗いはもうおしまいだ。おじさんとこに来な。おじさんはドバイに素敵な別荘をもってる。いっしょに暮らそうってな」 そしたらな、と客は、ハンカチで目頭を拭くまねをしてから、 「『ごめんなさい。ぼく好きな人がいるんです。そのひとに会えるから、この店にいたいんです』」 はは、とリコは笑いかけて、だまった。 「おかしいか。相棒」 「失礼。――べつにかまうことないでしょう。買えばいい」 ラウルは顔をしかめた。 「そういうんじゃねえのさ」 ペットを飼いたいのではない、恋をしたのだ、という。恋人を金で買うことはできない、と言った。 リコはもてあました。つい、 「じゃ、なにがしたいんですか」 と聞いた。 ラウルはまたオイオイ泣きまねをした。いきなり手をのばし、リコの肩をつかんで、言った。 「おれのかわりに、キミーを幸せにしてやってくれ」 事情を聞いて、リコは腹をたてた。 幸せにしてやるどころではない。アクトーレスが犬に手を出したらクビである。そんな噂がたつだけで致命傷だった。 (とんだ地雷だ) ムーセイオン(訓練所)で一番に注意されることが、犬との距離だった。新人アクトーレスがかわいい犬にほだされて、クビになる話をしつこく聞かされている。 その間抜けな例のひとつになるのは、ごめんだった。 翌日、リコは、レストランの犬とやらの担当アクトーレスを探そうとした。 が、同僚は出払っており、端末のデータを読んでくれる人間がいない。 自分で読むのはいやだった。はなはだしく時間がかかる上、読み間違う。 (直談判のほうが早い) 彼は『トリマルキオ』に向かった。 古代ローマ風の石畳の通りを抜け、そのレストランに入ろうとした時、人間が勢いよくぶつかってきた。 その男はろくにものも言わず、転がるように駆けていった。 ――壊し屋? リコがふりむきつつ、店をくぐると、なかでは騒ぎが起きていた。 「キミー!」 濁った悲鳴があがり、人々がざわめいている。血だまりのなかに、黒いエプロンをつけた犬がへたりこんでいた。 あの白っぽい金髪だった。ぐらりと床に仰向いた。エプロンの裾からみるみる血があふれてくる。 (なに?) リコは犬のからだに駆け寄った。 エプロンをまくると太腿から噴きこぼれるように血が出ていた。 リコはとっさにその内腿の傷を押さえた。 そうしたが、事態がよく飲み込めない。なにが起こっているのか。とにかくこの犬は血を流しすぎている。 「ポルタ・アルブス(病院)を」 だが、まわりの人間はうろたえ騒ぐばかりだった。店の亭主はわめき、犬たちはおろおろするばかりで動かない。吐いている者さえいる。 リコはそばにあった椅子をつかみ、床に叩きつけた。椅子が壊れ、足がはじけ飛ぶ。 一同がぎょっとして、息をつめた。 リコは言った。 「すぐにポルタ・アルブスに連絡しろ。ここに救急キットはないのか」 客のひとりが「電話しよう」と携帯電話を取り出した。 店の犬がこわごわ薬箱を持ってくる。 「包帯が切れてて……。バンドエイドしかありません」 「ガーゼを出して。消毒薬。足の付け根を押さえろ」 「……いやだ」 犬は泣き顔になった。 「だって、血が」 リコは唸り、傷にガーゼをあてた。手を放した途端、血があふれ出してくる。自分の首からネクタイをひきぬいて、ガーゼに巻いたが、またたくまにネクタイが黒く染まった。 出血が止まらない。 (大動脈だ。死ぬ) 大動脈から血が流れ続ければ、ひとは一分以内に死ぬ。 リコは股のつけ根の止血点をこぶしで強く圧した。 犬の顔が不気味なほど白い。目をカッと剥き、ショック状態に陥っていた。 リコは片手で携帯をとり、ポルタ・アルブスにかけて怒鳴った。 「レストラン・トリマルキオだ。救急車早くしろ。走ってでも点滴液をもってこい!」 ポルタ・アルブスの救急隊員に引き渡した後、リコは一度、インスラ(アパート)に戻った。 午後から調教がある。血まみれのスーツを着替えなければならない。 着替える間、リコは無感覚になっていた。 脱いだワイシャツに血が沁みている。血はまだ赤かった。 生きのびる、とは思わなかった。 (かんたんに死ぬ) 人間はかんたんに死ぬ、と思った。さっき笑っていた人間があっさり息をとめる。ふりむいたとたん、肉の破片になったりする。 いくつもの死の場面が見えたが、感情はひらかない。感傷や感情は別の場所に仕舞ってある。永遠にひらくつもりはなかった。 新しいワイシャツのボタンを留めていると、携帯電話が鳴った。 『今すぐポルタ・アルブスへ来てください。キミーが死にそうなんです』 トリマルキオの亭主だった。 リコは無愛想な声を出した。 「わたしにできることはありません。担当アクトーレスを呼んでください」 『レストランの子には担当アクトーレスなんかないんだ。おねがいします!』 電話は一方的にしゃべって、切れた。 リコは電話をしまい、シャツのボタンを留めた。 行くつもりはなかった。 行く道理がない。リコは通りがかりのヴィラ・スタッフとして処置を施したにすぎない。これ以上、よその犬を見る義理はなかった。 (手を尽くしても、祈っても、死ぬ者は死ぬ) ふと、胸の底でさわぐものがあったが、彼はかまわず押し潰した。 ジャケットに袖を通し、ポケットにネクタイをつっこんで部屋を出た。 |
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