キスミー、キミー  第5話

「こっちです」

 トリマルキオの亭主は、リコを見て、泣くような笑顔を見せた。
 部屋の中央に計器に囲まれたベッドがあった。

 キミーはベッドに小さく鎮まっていた。やはり白い顔をしていたが、胸が動いている。
 ベッドサイドモニターの光がおだやかにその鼓動を刻んでいた。
 リコは恨むように言った。

「生きてるじゃないですか」

 亭主は当たり前だ、とブルドッグのような顔をしかめ、

「いや、さっきは本当に死にそうだったんです。今だって、わからんのです。医者のやつが、こういうのは夕方くらいぽっくり逝くこともあるって言うんで」

 ま、コーヒーでも持って来ましょう、といそいそ出て行った。

(ばかばかしい)

 リコは椅子にどかりと腰をおろした。
 目の前にキミーの寝顔があった。
 その目もとには生気が戻っていた。鼻の下にチューブを貼り付けていたが、寝息は力強い。

(生きられそうだ)

 そう思ったが、リコはまだよろこばずにいた。
 本当はここへ来るつもりもなかった。予定していた調教がキャンセルになり、亭主に何度も懇願されて、しかたなく来た。なぜか、亭主は必死だった。

「もう一歩遅かったら、死んでたそうです」

 トリマルキオの亭主がコーヒーを手渡して、隣に座った。

「あんたの処置のおかげです。礼を言います。わしは泡食っちまった。二十年もこんなことやってるのに、ダメだな。いざとなると」

「みんなそうですよ」

 あの、とリコは聞きかけた。亭主はさえぎるように、

「いや、すまなかった。わしゃ動転していたんです。こいつが向こうに行っちまうような気がして。あんたなら、こいつの魂を呼び戻せるんじゃないかって。取り乱すと人間、わけのわからんことをするもんです」

 リコはあきらめ、薄いコーヒーを飲んだ。亭主はキミーの手に毛布をかけてやりながら、

「こいつらは運がいいんです。わしんとこに来たんだから。まじめにやってりゃ、かならず外に帰れる。だから、わしは――」

 あとは言わなかった。コーヒーを飲んで、物憂くキミーを眺めていた。
 リコはたずねた。

「何があったんです?」

 亭主は話した。
 刺したのは壊し屋ペルツァーだった。いきなり店に来て、キミーに向かっていった、という。なんの言い合いもなかった。
 キミーは避けようとして、ナイフを太腿に受けてしまったらしい。

「ナイフは店の?」

「いや、自分のです」

 リコはふしぎにおもった。
 壊し屋といわれる連中は、歪んだ情熱をもっているが、一様に辛抱強い。相手を刺すほどにヒステリーをおこすことはあまりない。

(一週間、カナリアのことをずっと恨んでいたのだろうか)

「キミー?」

 亭主の声にリコは目をあげた。犬がぼんやり目を開いていた。
 うつろな焦点が定まり、こちらを向く。その目がしだいに力を帯びた。
 リコはかすかにたじろいだ。

 あのグリーンの目だった。ゆっくり朝日が昇るように輝きが増し、明るくなった。幸福そうな微笑みがひろがる。
 リコ? とつぶやくように言った。

 リコは見つめ、声をうしなった。
 死ぬはずのカナリアが目を開き、新鮮な啼き声をあげていた。澄んだ目でリコを見つめ、けろりと笑ってみせていた。
 だしぬけに、奇妙なかなしみがリコの胸を衝いた。

「え?」

 キミーは目をしばたいた。

「あれ?」

 彼は病室に気づき、ふたたびリコを見て、小さく悲鳴をあげた。

「夢じゃない?」

「このクソ犬が!」

 亭主がいきなり怒声をあげた。

「おまえ、こちらにどれだけ迷惑をかけたかわかってんのか!」

 心配した亭主の説教は長かった。キミーはシーツを頭まで引き上げて、客の目から隠れようとした。そのシーツを引き剥がされ、さらに聞かされる。

 リコはとなりでなかば放心していた。

(こんなこともあるのか)

 ――死なないで欲しいとおもった人間が、還されてくることもある。

 たまにはこんなこともあるのか、とぼう然としていた。
 うれしいはずなのに、リコは浮き立たずにいた。なぜか、胸苦しく、かなしみが湧いた。だが、そのかなしみは雪解けのようにやさしく、悪くなかった。

 彼は立ち上がった。
 病室を出てまもなく、背後で機材の倒れる騒々しい音がした。

「キミー!」

 亭主の怒鳴り声にふりむくと、キミーが廊下に転げ出てくるところだった。

「リコ」

 キミーは壁にすがりながら、わめくように言った。

「あ、ありがとう!」

 すぐに亭主が出てきて、ございますをつけろ、とその頭を殴った。




 病院を出て数日、キミーは地に足がつかなかった。

「おれ、あの人に、おれ、――」

 トリマルキオに戻っても、興奮がやまない。意味もなく笑い出し、仲間の犬に抱きつく。
 仲間が面白がって、事故の時の様子を知らせると、また気を失わんばかりに感激した。

(ああ、どうしよう)

 意識がない間のこととはいえ、恋人が自分に触れたと知って、キミーは頬に血をさしのぼらせた。

(この傷、なくならないといい)

 太腿の包帯に触れ、彼はそこに恋人の大きな手を想像した。すぐに気恥ずかしくなり、手をひっこめる。

「おい、キミーがエロいこと考えてるぞ」

 仲間がからかった。キミーは飛び跳ね、笑いながら仲間の頭をかかえ、締め上げた。

「このクソ犬め! おまえにこの幸せがわかるか!」

「ばか、放せ。荷物、荷物」

 仲間の犬が紙包みを差し出す。ポルタ・アルブスからだった。
 開けると、血の沁みたネクタイが出てきた。リコが彼の太腿に巻いたものだった。
 キミーは悲鳴のような歓声をあげ、胸に掻き抱いた。

 仲間は呆れ返った。「なに、泣いてんだよ」
 キミーは沁みのついたネクタイを抱え、笑いながら、涙と洟を垂らしていた。

「ほんもののバカじゃねえか、こいつ」

 トリマルキオの仲間たちは、手がつけられん、と呆れた。
 呆れつつ、そんなキミーを羨んでいた。

 トリマルキオの亭主ですら、キミーの浮かれように、きつく言えなかった。
 キミーが、

「ペクリウム(奴隷財産)を一部下ろして、リコにネクタイをプレゼントしたい」

 と言い出した時、亭主は叱った。叱ったが、結局、押し切られて金を渡してしまった。

 レストランの犬にとって、ペクリウムは自分の自由を贖うための資金である。
 トリマルキオの亭主は犬に給料を渡さず、自分で管理していた。これをキミーに渡したのは、この男も若者の情熱になにがしか感じて、甘やかしてしまったと言っていい。

「これいいな。これ似合うと思わない?」

 ヴィラのイントラネットで、キミーがネクタイを選んでいると、仲間たちがその肩からのぞく。

「ばか。やつはケンブリッジの出じゃないだろ」

「え?」

「この色はケンブリッジ大学の校友って意味なの。そんなことも知らないのかよ」

 トリマルキオの犬たちは、ネクタイ選びにはしゃいだ。レストランに来た客までが、

「ラウルさま」

 キミーはもじもじと客にたずねた。

「ラウルさまはアーティストだから、色あわせのことは詳しいですよね」

「なんだい。新しいエプロンでも買うのかい」

「グレーの目には、何色が合うんですか」

 客はキミーの意図に気づき、オイオイと泣きまねした。

「おまえはほかの男へのプレゼントをおれに聞くのかい」

 映画俳優のラウルは好人物だった。キミーのために趣味のいいピンドットのネクタイを選んでやった。
 寄付も出すといったが、それはキミーが断った。

「ぼくの金で買いたいんです。ぼくの給料で!」

 キミーは誇らしげに目を輝かせた。


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