キスミー、キミー 第8話 |
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キミーが死ぬ。それがわかって、リコは神に騙されたような気がした。ぼう然とした。 (これがヴィラだ) 人身売買組織だ。自分は承知して入った。そう思ったが、リコはこころをまとめきれずにいた。 その日は仕事に集中できなかった。かろうじて客の声を聞き、時々、聞き逃した。暴れる犬を押さえつけ、枷をかけながら、キミーの明るいグリーンの目を見ていた。 キミーの透きとおった笑顔が浮かぶ。贈り物をつき返した時のうなだれた姿、チューブをつけたまま病室から飛び出してきた姿が浮かんだ。 終業後、すっかり滅入ってしまい、からだが重かった。控え室にひとり残り、途方にくれていた。 (なぜ、かなしいんだ) リコは肩を落とし、ぼんやりと手のなかの赤い箱を見た。 (また白い袋が増えるだけの話だ) 死には慣れている。対処のしかたもわかる。これが過ぎても、なにごともなくヴィラで仕事を続けていくだろう。忘れてしまうだろう。 だが、リコは時が止まったように動かなかった。 自分でもわけがわからない。これぐらいのことが、こたえるはずはないのに立ち上がれなかった。ひどく疲れ、老いこむような感じがした。 (ジムへ行くか。それとも) 一度、会うか、と箱を見つめた。 会ってどうするのだ、という問いに答えは出なかった。 出ないまま、リコはキミーのセルを探した。 監視室のモニターを見ると、キミーはベッドの上にねじれて、横たわっていた。動けないでいる。 ――電流。 とリコは気づいた。 逃亡の罰に、痛めつけられたのだろう。 キミーは片手に黒い紐をにぎり、そこに頬を乗せていた。そのネクタイには見覚えがあった。 「ここを」 開錠してくれ、と頼み、リコは監視室を出た。 自分が何をしようとしているのか、まだよくわからなかった。 セルに入った時も、リコはまだなんの考えもなかった。それでも、呼びかけてしまった。 キミー。 はじめてその名前を呼んだ。 金髪の頭がひきずるように動いた。しばらく沈黙した。 「はアッ」 犬は明るい悲鳴をあげた。彼はつんのめるようによたよた身を起こし、目を丸くして見つめた。 「き、来てくれたんですか」 リコは、ああ、と困ってこたえた。来るには来た。いったい何しに来たのだか。 死地にやられる犬のために、最後に慰問に来てやったとでもいうのだろうか。 「ああ――」 犬は子どものように目を輝かせ、感激に喘いでいる。 リコはもう自分のふるまいがいやになった。出ようとおもった。 「あ、お、お茶を」 気配を察したのか、犬はベッドを下りようとして転げ落ちた。痙攣の残る足をもがくようにたたせ、 「ここ、ポットがあるんです。コーヒーを淹れます」 「キミー。いいよ」 「タルトもあるんです! おれ、一個残しておいたから」 冷蔵庫にとりつくと、プラスチックのケースに入った菓子をつかみ出した。 「あ、ケーキだった。これ、これ食べて。コーヒー淹れますから」 キミーはリコの顔の前に菓子を差し出し、必死に見ていた。ケーキのカップをつかんだ手がはげしく痙攣する。 力のない指先からカップが落ちた。カップはしずかに床をころがって、足元を離れた。 キミーはうろたえ、リコを見つめた。グリーンの目がにわかにうるみ、涙をあふれさせた。 「ネクタイ、受け取って」 彼は濡れた目で微笑んだ。 「ぼくはもう出て行くから、迷惑にならないでしょ」 笑みがふるえていた。鼻からも涙が落ち、垂れた。 リコはもはや抗えなかった。腕にその細身を抱き取り、被うように口づけていた。 キミーのひざがくずれた。 リコはあたたかい唇に触れ、頬に触れた。 支えた背はうすい。リコの腕のなかで溶けてしまいそうなほど、キミーのからだはたよりない。 その細身に大量の光がふくまれている。けなげに熱と光を放射している。 まぶしかった。 リコはまぶしさと、痛みを感じた。 ――あの日。 カナリアを放った瞬間をおもった。 あの瞬間、彼の心のなかにも、しずかな羽音がたった。ざわめき、手におえない強い歓喜を感じて、いそいで蓋をした。 ぴたりと思いをとじて、過ぎていくはずだった。 どうして腕に抱いたりしてしまったのだろう。 キミーはリコの頸に触れていた。見上げ、夢みるように微笑んだ。 「もう、死んでもいい」 リコは思わず、顔をそむけそうになった。グリーンの目がたとえようもなく美しかった。死のうとする人間の、最後の贈り物のような愛情があふれていた。 「死ぬな」 リコは言った。 「おれは兵隊だから、死んだら忘れてしまう」 キミーはふたたび彼の首に頭を埋め、抱きしめた。 返事はしなかった。 リコはそのやわらかい髪を頬に感じ、 「なんとかしてやる」 と言った。 言わずにおれなかった。 こころの底で、さすがに理性がさわいだ。 ――おまえはうそつきか。できるはずがない。 一介のアクトーレスに、客から犬を取り上げる力があるはずがない。 だが、それ以上にリコはこわかった。死なせたくなかった。畏れから、転がるように決断してしまった。 もう一度言った。 「なんとかする」 キミーのあごをとり、約束するように口づけた。彼は身をひるがえして、セルを出た。 三日の間、リコは姿を消した。 キミーは彼の噂も聞かなかった。遊び時間に出ることも許されず、ひとりセルで過ごしていた。 トリマルキオの亭主に連絡をつけ、自分の貯めたペリクリウムを仲間たちに分配するよう頼むと、もうすることもなかった。 彼はいつものように日記を書いた。 『キミーの死にそう日記 2004年 4月2日 セス。今日はもう出る日だ。 ヴィラから出る日だよ。こんな風に出るとは、さすがにおれもおもわなかった。 出たら、まっさきにセスに会って、いろいろ話すつもりだったけど、どうもダメみたいだ。 でも、つらくはない。 リコが来てくれたからね。 あのまま、ずっと平和な気持ちが続いている。もう、どうころんでもしあわせな感じだ。 リコはどうするつもりだろう。たぶん、何もできないと思う。 でも、危ないことだったら、しないでくれたほうがいいと、おれは思っている。 もし、もう一度会えたら、もういちど、キスしたい。あの大きな狼のくびったまを抱きしめたい。 それだけでいい。 この日記、セスに渡したかったけど、ダメだって。 でも、兄さんはおれが愛しているって知ってるよね』 そう書いた時、セルのドアが開錠の音をたてた。 入ってきたウエリテス兵が、床にいくつか袋を放った。服と靴だった。 「さよならだ。キミー。仕度しな」 |
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