キスミー、キミー  第9話

 ヴィラの会員は帰る際、正門で本人確認のチェックを受ける。
 犬連れの場合、犬は体内に埋め込んだ発信機のデータをリーダーで照合される。

 多くの会員はそこから専用道路でA国の空港まで送られる。

 空港はヴィラの占有というわけではない。れっきとしたA国の国際空港だが、ヴィラによって拡張工事がなされた。

 会員たちの自家用ジェット機が、舞い降りる滑走路のためである。
 豪華なラウンジも増設され、ヴィラの客は自家用機の整備を待つ間、そこを利用した。

 少し前に砂嵐があった。
 点検のため、出発が遅れることになり、ペルツァーはキミーをともない、ラウンジで待った。

「ペルツァー様」

 彼のボディガードが耳打ちした。ラウンジの入り口に大柄な男が立っていた。

「かまわん。入れろ」

 大柄な男はヴィラ正門のセキュリティ要員だと名乗り、バッジを見せた。
 男はおだやかに用件をつげた。

「先ほどのチェックでわかったのですが、わんちゃんの信号装置に異常が出ております。故障のようですので、ご出発のまえに交換させていただきたいのですが」

 男は五分ほどで済むと言った。ペルツァーはよかろうとゆるした。
 男はラウンジを見回し、

「おそれいりますが、ここで裸にするわけにはいきませんので、犬をトイレに連れていってもよろしいでしょうか」

「ここでかまわんだろう。いるのはヴィラの連中ばかりじゃないか」

「一応、施設外にあたりますので」

 ペルツァーがゆるすと、スタッフは犬をともない出て行った。ボディガードがひとりついて行く。
 それきり戻らなかった。

 十分たった時、ペルツァーはいまひとりのボディガードに様子を見にいかせた。
 まもなくボディガードが血相を変えて戻ってきた。

「犬が消えています」

 もうひとりのボディガードは縛られて個室のなかで気をうしなっていたと言った。
 ペルツァーは耳をうたがった。だが、すぐに事態を判断すると、ヴィラに電話をかけた。
 家令はおどろき、なにごとが起きたのか調査した。三分後、

『わんちゃんは空港から航空機で移動しているようです。問い合わせたところ、個人所有の小型機がメルボルンへ出発したばかりです。現地にミッレペダ・スタッフを待機させます』




 リコは埃っぽいアラブの町にランドローバーを走らせていた。

「ね、おれたち、オーストラリアに行ったとおもったかな」

 キミーはとなりではしゃいでいる。

「一分ぐらいな」

 リコは楽観しなかった。
 少し考えれば、犬が発信機をはずさずに逃げるはずがないと思いつくだろう。それでも、彼らに情報がない以上、そちらに目をむけざるを得ない。

「で、どこに向かってるの? モロッコ?」

 キミーはハイキングに行くような明るい顔をしていた。

「いや、サハラだ」

「わお! 最高!」

 リコは彼の喜びようにあきれた。これから戦争がはじまるというのに、のんきなことだ。

「キミー」

 リコはたずねた。

「銃を撃ったことはあるか」

「ないよ」

 キミーはきっぱり言った。

「撃ちたいともおもわないね」

 リコは説得はしなかった。訓練している時間はない。撃てない人間に銃をもたせれば、厄介が増えるだけである。

「わかった。おまえは撃たなくていい。だが、おれの邪魔はするな。敵に接触したら、無駄口はきくな。走れといったら、走れ。考えずにそうしてくれ。わかるな」

「了解であります。軍曹どの!」

 キミーは元気に応じた。

 リコは一度、ヴィラにほど近いA国都市の旧市街に寄った。頼んでいた武器を受け取ろうとしたが、まだ来ていなかった。

「砂嵐で遅れているんだ。もうすぐ来るだろう」

 と商人は言った。

 リコは胸のうちで悪態をついた。次に来た時にはミッレペダが待ち受けているかもしれない。
 だが、どうしても武器は要る。

「代わりのでいい。あるものを見せてくれ」

 リコはキミーを安ホテルに隠し、自分は駆けずり回って残りの不足物資をかきあつめた。

 彼ひとりが逃走するための装備は、すでに用意してあった。これは、ヴィラ・カプリというあやしい組織に雇われることになった時に準備しておいたものである。どこにいても、脱出ルートを確認しておくのは、デルタにいた時の癖だった。

 とはいえ、まさか犬連れで逃げるとは思っていなかった。計画は大幅に変更しなければならない。




 かたや、キミーはホテルでべつの準備に熱中していた。
 石けんを買い、共同シャワー室に入りびたり、丹念にからだを磨きあげていた。

 キミーの頭に、逃走の不安はなかった。逃走のことは一切、リコに任せきっていた。
 楽天家、とはいえない。
 キミーは逃亡犬が百パーセント連れ戻されていることを知っている。その後にくる運命がわからぬほど無知ではなかったが、それほど恐怖を感じてはいなかった。

 むしろ、それだけの犠牲をはらっても、あこがれの恋人と過ごせてよかった、と感謝していた。

 ――どうせ死ぬのなら、一日でも楽しく過ごしたい。

 キミーの目はいま、『恋人とのはじめての一夜』というすばらしいイベントに釘付けになっていた。

 彼はロマンチストである。
 これまで煙がたつほどに、リコを思ってきたが、想像のなかで彼と寝るということはけしてしなかった。そういう想像は恋人への侮辱と考え、真剣に自分に禁じてきた。
 それがいきなり、なまなましい現実となって眼前にあらわれている。

 キミーはすっかりのぼせた。冷水を浴びても鼻血が出るほどだった。
 キミーは這うようにして自分たちの部屋に戻った。服は着ない。シーツのうえで、悶々と転がりながら待っていた。
 それゆえ、リコが戻ってきて、

「すぐ出かけるぞ」

 と言った時は、すぐ反応できなかった。
 リコは座りもせず、荷物をかきあつめ、仕度をしろ、と言った。
 キミーは遠慮がちに聞いた。

「休まないの」

「休まない」

 リコは荷物をザックに押し込み、

「これから三日間、寝ないで走る」

 キミーの裸には目もくれなかった。


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