キスミー、キミー

キスミー、キミー　　第２９話
一時間後、リコが現れた。　ピートは彼を中に入れ、「おれは下にいる」　と出て行った。　リコはソファのすみにうずくまっているキミーを見た。　キミーはひざをかかえ、うつろに鎮まっている。スタンドの灯がその顔に陰気な影を落としていた。　――やはり。　リコは、レストランにいた時から、この顔を見ていた気がした。「どうしてだ」　キミーはさびしく言った。「これが、おれの贈り物なんだ」「気に入らないな」「これが、おれができる唯一、まともなことなんだよ」　リコは彼のむかいのベッドに座った。　グリーンの目が物憂く見つめる。スタンドの灯を受けて、涙が光っていた。「最初から、ついてきちゃいけなかったんだ」　キミーは言った。「最初、空港で、あなたがペルツァーの護衛を殴った時、おれは、ついて行っちゃいけないって、わかってた。地獄に行こうとしている。まだ間に合うって。でも、うれしくて、どうにもならなかった」　グリーンの目から涙が落ちた。「いっしょにいたかった。行けないなんて、言えなかった。うれしくて、舞い上がってて、いっしょにいられるなら、どんなことがあってもいいと思っちゃったんだ」　キミーはひざに顔を埋め、泣いた。　おれがみんな悪い、と泣いた。　リコは黙っていた。　キミーはくるしげに言った。「おれが戻れば、ヴィラはしつこく探さないと思う。探したとしても、あなたひとりなら、もっとうまく逃げられる」　行ってくれ、といった。　リコはしばらくキミーの肩が揺れるのを見ていた。カナリアを放った誇らしげな肩が、小さくこわばり、ぼろぼろになっていた。「キミー」　リコは言った。「お礼なら、キスがいい」　彼はうなだれた金髪の頭を見つめた。「おれは兵隊だから」　――それに、とても目立たない部隊にいたから、と言った。　キミーは頭をあげない。ゆるい巻き毛がスタンドの灯に濡れたように光っていた。　リコは話した。「おれがいたのは、目立たない、タフな部隊だ。任務はほかの隊より危険度が高い。だれを救出しろ、とか。だれを護衛しろ、とか。どこを強襲しろ――。行って、作戦を実行して帰ってくる。ケガをすることもあるし、死傷者が出ることもある。でも、誰も知らない。陸軍も把握していない。秘密部隊だから。隊員同士でさえ、いま自分がなんの任務にとりかかっているのか、互いに知らせない」　だから、自慢もできない、ひとりで満足するしかない、と言った。　リコはすこし黙った。　キミーの肩がしずかになっていた。「でも、一度、お礼の手紙をもらったことがある。ある国で、テロリストから助けた人質からだ。そのひとたちがあとで、義理堅く、手紙を送ってくれた。とてもうれしかった。そいつはまだ持ってる。でも、読めない。長くて。むずかしい言葉が多くて。何度か自分で読もうとしたけど、途中で寝てしまう」　だから、キスがいい、と言った。「キスしてくれ。キミー」　キミーはそでに顔を押しつけて、泣いた。口が赤ん坊のようにゆがんでいた。　はげしくむせび泣き、そでで顔をぬぐうと、リコの頸にしがみついた。　からだを重ね合わせ、キミーは息をふるわせた。　大きな肉体が彼を包んでいる。ぴたりと肌をあわせ、胸におし包んで、外界から隠している。　リコは抱擁したまま、しばらく動かなかった。キミーをくるみこみ、そのまま眠るかのように沈黙してしまった。　キミーは呆けたように、その心音を聞いていた。　彼の感じやすいペニスはすでに練乳のように甘いもので張りつめている。恋人のそれも昂ぶっているのがわかる。　だが、動くのが惜しい。抱かれたく、一方、永遠にこうしてくるまれていたかった。　リコの腕が苦しいほど締めつけていた。腕は後悔していた。二度と傷つけまいとするように、しっかりと抱えている。（いつも遠くにいる狼）　だが、今日はキミーのそばにいた。近寄り、哀れむように匂いを嗅いでいた。　キミーはリコに抱かれた。恋人をからだに迎え入れ、その猛々しさ、甘さにあえいだ。「リコ――」　手をのばし、そのたくましい肩をつかむ。　リコのからだは大きい。そのペニスはキミーの腰をはちきれんほどに満たし、押し広げてしまう。愛撫は無骨だった。が、やさしかった。どんな男より、キミーを可愛がっていた。「ハッ、あ、リコ――」　大きなからだの下で、キミーはねじれ、のけぞった。足の間からゆたかな快楽がからだを突き上げ、のたうって出ていく。　棒となったペニスがふたりの間で揉まれていた。なにも考えられない。光が頭蓋骨に、鉈でうつように襲いかかっていた。（リコ――リコ）　キミーは足掻いた。乱気流に巻かれ、きりもみしていく。「や、アアッ」　ガクンと腰がはぜる。キミーの脳裏に一瞬、ベージュ色の大地が見えた。無音の大地の上で、からだが恍惚と、羽毛のように浮遊していた。　いつしか、リコはふたたびキミーを抱きしめていた。満足そうに喘ぎ、宝物をかくすように、キミーを胸のうちにしまいこんでいた。　キミーはぼんやりと涙を落とした。　髪に恋人の早い寝息がふれている。すぐそばに彼の硬い胸があった。　ブロックのようにそっけない胸。　いつか、キミーは盾のようなその胸のそとに放り出されていた。　白い袋がなんだかわからなかった。　だが、いま、キミーは理解できる。（ここには、この前死んだアラブ人も入っている）　彼らの躯はキミーのなかにも横たわっていた。これから先も、ふたりの中にありつづけるだろう。　キミーはまた涙を落とした。　生きていくのがかなしく、おそろしかった。恋人も自分もひどくおろかで、哀れに思えた。　だが、恋人の寝息がいとしかった。短い息をつくたびに、大きな肩が沈み、ふくらんだ。長く重たい腕がかすかに揺れた。　その腕は、キミーをくるみこんでいる。　自分の苦痛は忘れ、風にもあてまいとするようにキミーを守っている。　キミーは泣いた。　生きものというやつは、なぜこんなに愚かなのだろう。そして、やさしいのだろう。（リコ、好きだ）　かなしみと、深い感謝とともにおもった。幸せな感覚が沁みるようにもどり、涙がにじんだ。　悲惨のとなりに幸福がいた。ふたりはその混みあったなかで眠っていた。（ともにいよう）　こうしてずっといよう、とキミーは思った。自分には何もできない。いつかリコの憂鬱をとりのぞきたい、と思っていたが、それは不可能だとわかった。人間のできることは少ない。　だが、となりにいれば、少しはあたたかいだろう。　キミーは身をのばし、リコに口づけた。　唇がそっと触れる。あごをあげ、唇をひらき、歯に触れる。舌を追い、甘美な蜜を吸う。太い頸を抱き、からだを預ける。　そっと唇を離し、キミーは微笑みかけた。（おれのボス狼）　リコが目をひらいていた。　その目はあいかわらず温度が低い。表情がうすい。だが、ほんのすこし、困惑したような微笑らしきものが浮かんでいた。　ピートはロビーで新聞をかぶり、寝こけていた。　気づくと、リコとキミーの声がそばで聞こえていた。　――リコ。次はどこ？　――ケニア。　――ケニアって、ライオンがいるとこだよね。　――マサイとかな。　ふたりはクスクス笑っていた。　ピートも目を閉じたまま笑った。ふたりは、ピートがミッレペダで報告する時のために、『報告用の行き先』を知らせてくれているのだった。　――ケニアで何するの、リコ？　――自然保護区で、密猟狩りのレインジャーのコンサルでもやろうと思ってる。そこにもう辞めた中隊の仲間が練兵にいっているから。　――ライオン狩りとかもする？　――だから、動物保護の仕事だって。　ふたりは笑い、立ち上がった。　――というわけだから、もうついてきちゃダメだよ。　――ケニアだ。　ピートは笑い、目をつぶったまま手を差し出した。　大きな厚い手が、無言で握った。つづいて、ほっそりした指が力強く握った。　ふたりは出て行った。
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