キスミー、キミー 第36話 |
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ゴミの散乱するうす汚い通りに、雨が降っていた。 ホームレスがかろうじて屋根の下に入り、ひざをちぢめている。 温暖なLAの冬も、日が隠れれば肌寒い。ホームレスたちはシェルターの配給を待つ間、濡れた衣類の間から通りを睨んでいた。 ピートは彼らのくもの巣のような視線をまといつつ、ダウンタウンを歩いた。 その男はこわれかけた階段の下で、腕をまくらに眠っていた。 骨柄の大きい男だったが、ひどく痩せていた。頬の肉がそげ、不精ひげで汚れている。閉じた目はくぼみ、疲れた顔をしていた。左の眉にうっすらと手術の痕があった。 「リコ」 男は細く目を開けた。彼は目をしばたき、かなしげに、 「やあ」 と言った。 灰色の目はよわかった。疲れ果て、逃げられずにいた。すべてあきらめたかのように、さびしく、にぶかった。 ピートは彼を食事に誘った。 「少し話さないか」 リコは身を起こしたが、しばらくうつむいていた。 「話すことなんかないぜ」 「じゃあ、ビールでもおごらせてくれ。それか、あったかいものでも」 やはり腹が減っていたのか、彼は立ち上がった。その足元がおぼつかなかった。靴先が開き、紐でしばってある。 尻も足もすっかりやせて、ズボンがあまっていた。 「具合が悪いのか」 「……風邪かな。最近、熱っぽい」 ピートは支えようとして、ショックを受けた。あの逞しい腕があきらかにわかるほど細くなっていた。 「どうして――」 言葉が出なかった。足元がふらついている。 ――あのサハラの乾き地獄にもしっかりと立っていた男が! 「イラクに出稼ぎにいった時」 リコは咳き込み、首をそむけた。咽喉から風のもれるような音がした。 「トラックがIED(手製仕掛け爆弾)にやられた。三日ぐらい気絶してた。稼ぎは医療費で全部パアさ」 彼はまた咳き込んだ。血痰が出た。 頬がうす赤い。皮膚はかさつき、力なく薄かった。 「リコ」 ピートはたまらなくなった。 「どうしたんだよ。あんた、そんなやつじゃないだろう!」 ピートはリコにパブで飯を食わせた。 パブの主人はホームレスを入れられて嫌な顔をしたが、チップで黙った。 やはり腹が減っていたらしく、リコはガツガツ食べた。からだのほうはまだ生き残ることを覚えている。その核だけは、まだ彼らしさが残っていた。 「たすかった」 ひとしきり腹に食べものをおさめると、リコはそっけなく礼を言った。コーヒーカップを置き、さりげなく腕をテーブルの上に組んで、身構えている。 ピートはさびしくなった。 「長距離の運転手なんてやってたってことは、まだ知らなかったんだな」 ピートはリコの捜査命令が解除されたことを伝えた。ペルツァーの働きであることも言った。 「そうか」 リコはそれほどよろこばなかった。眠そうでさえあった。 ピートは切り出した。 「なぜ、キミーに会わない」 リコは目を伏せていた。 「会う必要ないだろう。おれはあれが殺されると思ったから、ヴィラから連れ出した。もうそんな危険もない。犬でもない。あとは好きにやればいい」 「そんなクソみたいな話、おれにするな」 ピートは言った。 「おまえはペルツァーに頼まれた。キミーはそのことを知ってる。だから、ペルツァーが死ぬまで、おとなしく待ってたんじゃないか」 「待たずにどこへでもいけばいい」 「おい」 「よけいな世話だ」 リコははじめて冷かにピートを見た。 「一時、小僧と暮らした。事情があって、終わった。終わったんだ。終りはなんにでもある。そのことで他人がひとを探し出して、ガミガミ言うこともないだろう」 その時、店に、背の高い人物が入ってきた。金髪のきれいな頭をめぐらし、店内にひとをさがす。 それを見て、リコは驚愕し、席から飛び上がった。 椅子を蹴倒し、逃げようとするのを、ピートが腰をつかんでとめた。 「ちがう。キミーじゃない」 グリーンウッド神父が気づき、近づいた。 「リコ・バンゼッティさんですね。キミーの兄です。キミーに」 「会いたくない!」 リコは怯えた犬のように叫んだ。 「おれはあいつを売った! どの面下げて会えるんだ!」 (ガキみたいだ) ピートはリコのうろたえぶりを見て、あきれた。 神父の話を聞きながら、リコは小さくすくみ、目もあげられずにいる。 その手は、歯医者に連れて行かれまいとする子どものように、しっかりと椅子の足をつかんでいた。 神父はのぞきこむように、やさしく話した。 「キミーはあなたの決断を責めていません。ペルツァー氏はキミーをかわいがっていて、その最後を看取れてよかったと言っています。キミーはやさしい男なんです。誰にとっても、あなたがペルツァー氏を殺害するという結果にならなくて、よかったはずです」 それはそれだ、というようにリコは口をむすんでいる。 神父は、キミーが彼を変わらず思っていること、ペルツァーから莫大な遺産を受けたが、リコに会うのに邪魔になる、と犬救出の活動に寄付してしまったこと、などを話した。 リコは目をあげない。 聞いているのか、いないのか、脂じみたシャツのなかにちぢまって、袋のような無表情を下げていた。 沈黙がおりた。 「リコ」 「わたしはキミーを売ったんです」 かぼそい声がようやく言った。 「ペルツァーに、大勢の人間から息子を奪ってきたのだから、ひとりぐらい返してくれ、と言われた時、もう撃てなくなった。もう耐えられなくなった。自分が少し楽になりたくて、キミーを売り渡したんです」 リコはうちひしがれていた。 「わたしは信用できない、役に立たない人間です。キミーのそばにいないほうがいい」 神父はしずかにその言葉を聞いた。 リコ、と彼は言った。 「もし、あなたがどうしても会わないというのなら、いっそ、そのことをキミーに言ってくれませんか」 リコははっきりと怯えの色を浮かべた。 「でないと、彼は計算の終わらないコンピューターみたいにいつまででも探しつづけますよ。そのうち事故にも遭うだろうし、あなたも鬱陶しいでしょう」 「そっちで伝えて――」 「ノー」 他人の言葉は信じません、と神父ははっきりことわった。 いまキミーは、まさにリコを探しに車であちこち巡り歩いている、といった。 「こちらから連絡はとれません。彼はこの前、携帯をなくしたんです。一週間に一度、日曜の夜に、向こうからわたしの教会に連絡を入れます」 その電話で話せばよい、と言った。 リコはしばらくだまっていた。やがて、観念したように、小さくうなずいた。 「これで終わらせましょう」 神父は微笑み、立ち上がった。 「それと、その用事がなくとも、あなたは一度、教会に来なさい。あなたの負っている白い袋は、わたしたちの専門です」 日曜の夜、神父はリコを待った。リコは遅れていた。 あの日、店を出た後、ピートが彼を入院させていた。リコの肺は、肺炎をおこし、痰で真っ白になっていた。 ピートは彼に航空チケットを渡し、 ――行けよ。一生後悔するぞ。 と念押しした。 リコは神妙に、行くと言った。行かなければ精算できないと、彼自身も思っていたのだろう。 (キミーのやつ、忘れてるんじゃないだろうな) 神父は電話が鳴らないことに気づいた。 だが、リコが来る前に電話が鳴ったら、どこまで知らせたものだろうか。リコがいた、と報せるべきか。それ以上のことはどうするのか。 (あいつは泣くだろう) テーブルに置かれた手紙を眺め、神父は頬杖をついた。筆圧の高いキミーの字が紙の上に踊っている。 ペルツァーのもとにいた時、キミーが書き送ったもので、複雑な事情と恋人のことがぎっしり書かれていた。文面から湯気がたつように恋人への思いが浮き上がっている。 電話が鳴った。 「キミーか」 『あ、ピートです』 ピートの声が気まずそうに聞いた。 『あの、やつは来ましたか』 「いいえ」 時計を見ると、すでに十二時を過ぎていた。来客もなく、また電話も鳴らなかった。 |
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