第5話

  大騒ぎの野外調教の後、わたしはもう散歩はイヤだと駄々をこねた。
  首に触れたジェイコブの体温が怖かった。わたしを審判する『昼の世界』が怖かった。
 おどろいたことに、イーサンは聞きいれた。

「少し刺激が強すぎました。しばらく家のなかで遊びましょう」

 この男は安定した主人だ。わたしを限界まで追い詰めるが、遊び半分で限界から蹴り出したりはしない。彼のなかにも美意識があるのだ。

「おまえはどこで、おぼえたんだ?」

 イーサンはカフェの明るい陽を受けて笑った。

「ここでしょ。あなたから」

 彼はいいなおした。

「あとは自力で。愛ゆえに」

「ほかの男も躾けてみたいか」

「全然」

「――」

「だから、愛ゆえなんですって」

「哀れみだろ」

「バカな――」

「飽きたらやめていいんだ。遊びはいずれ飽きがくる。哀れみにも」

 わたしは口をつぐんだ。
 見たような黒人がテーブルに近づいてくる。

 ドキリとした。ジェイコブだ。あの子だ。

「こんにちは、ニコルソン様」

 ジェイコブの顔も声も硬かった。
 わたしは挨拶を返さず、慇懃に見返した。

「ぼくはメリルの友だちです。ジェイコブといいます。少しお話ししてもいいですか」

 不躾だな、とイーサンがさえぎった。

「ご主人様は約束のない相手とはお話しにならない。用は家令を通して――」

 ジェイコブは勝手に座り、黒い目をひたと向けた。

「メリルは無事ですか」

 わたしは息をつめた。どうしようもなく気がうわずる。あの晩のことを突きつけられて、穏当に返事ができない。
 イーサンが不穏な声を出した。

「メリルはぴんぴんしてる。行きたまえ。ひとを呼ぶぞ」

「彼をあんな風に扱うべきじゃない」

 ジェイコブは澄んだ黒い目でわたしを見つめた。太陽を背にしたように強い眸だった。

「死んでしまう。息がとまらなくても、心が死んでしまう。もっとやさしく愛し合うべきだ。彼は人間なんだから」

 イーサンが口を開けかけた時、ジェイコブは立ち上がった。

「あんたは不幸だ」

 彼は言い、去った。
 イーサンが首を振った。

「メリルにイカレちまったらしくて、最近、家のまわりにうろついてるんです。通報しますか」

 彼はわたしを見て、眉をひそめた。
 わたしは自分の異変に気づき、おどろいた。右目から涙がこぼれていた。



「今日、また来たよ。『青年』が」

「おやおや。悪い子だね。いうこと聞かないねえ」

「恋をしてる。どうしようもない」

 わたしは床でスープの皿をなめつつ、かすかに緊張した。
 犬たちは食卓で、ジェイコブのことを話していた。

 ジェイコブはしばしば、我が家のまわりをうろつく。イーサンがハスターティに注意させたが、あきらめないようだ。

 ジェイコブの名を聞くと、なぜか落ち着かない。あの太陽の黒い目が怖い。ギロチンの刃のような純粋さが怖い。
 だが、忘れられなかった。首に触れた武骨な指の感触が、いつまでも残っていた。

「産卵中の犬を見たんだ。妄想でいっぱいなんだよ」

 メリルはご主人様、とわたしに手招きした。わたしは彼の椅子まで這い、その指からステーキのかけらを咥えとった。

「また卵を産ませたくてしかたないのかな。『ぼく』に」

 肉が唇から落ち、あわてて床に顔をつけた。

「そうじゃないさ」

 ディータが言う。

「きみのナイトになりたいんだろ。悪い主人から守るために。純情そうな子だ」

「ハハ。キスでもしてやるべき?」

「絶対やめろ。あれは問題物件だぞ。ご主人様に危害を加えるかもしれない。もう一度、注意したほうがいい」

 そうだね、とイーサンがわたしを呼んだ。つるりと尻を撫で、睾丸をつかむ。

「!」

 わたしはうろたえた。なぜか、ペニスが勃起していた。
 イーサンは言った。

「問題物件だ」

 

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