にゃんにゃん恩返し  第5話

 
 ハワイ旅行の後はさすがにぎくしゃくした。

 何もなかったようにふるまうのだが、どうしても腹の底がしこる。話しても、触れても、ビニールごしに触れるような、みじめさが残った。

 リッチーもそれに気づいている。
 彼がアパートに来る回数が減った。やがて、ぷっつりと来なくなった。

 わたしはしばらく放っておいた。ついにデザインでなく、マンガ連載の話が来てうわずっていたし、やはりプロポーズを蹴られたのはこたえていた。

 こちらが手放しで愛していたのに対し、彼はそうではなかったと知ってショックだったのだ。

 だが、新しいアパートに移った時、わたしは知らず彼のスペースも用意していた。

 キッチンにも、テーブルにも。ベッドもふたりのためのベッドを選んでいた。
 それに気づき、わたしは苦笑した。

 ――これまで通りでいいさ。同じことだ。

 わたしは彼に電話をかけた。
 リッチーは電話に出なかった。すねたのかとレストランに見にいくと、

「ここんとこ、休んでますよ」

 レストランのウェイター仲間が言った。「二日前から。ちょっとおかしいのがまとわりついてんですよ」

 ウェイターの言葉に、わたしは耳をうたがった。

(男?)

 一瞬、ぼう然とした。リッチーの影に男がいるなどと、考えたこともなかった。

 すぐ自分のうかつさに打たれた。リッチーは魅力的な若い男だ。ほかの男がなぜ放っておいてくれると思ったのか。

 足裏の下が流砂となって、溶け崩れていくようだった。

「リッチーはどこに住んでいるんです?」

 うろたえた。わたしは彼がどこに住んでいるかさえ、知らなかったのだ。彼はいつも当然のように部屋にいついていた。

「それは教えられませんね。ここへ来たら、伝えますよ」

「いま、教えてくれ。たのむ」

 うるさく食い下がると、ウェイターは店の奥に入り、店長となにごとか相談していた。

 誰かが連絡をとったのだろうか。突然、リッチーから電話が入った。

『やあ、レフ。ごめんよ。電話しないで』

 わたしはあえいだ。なんと切り出していいかわからない。
 だが、彼のほうが言った。

『今からそっちに行くよ。そのほうが話が早い』
 



 レストランのテーブルで頭を抱えていると、表でクラクションが鳴った。
 紺のミニバンの中にリッチーがいた。
 わたしは勘定を放り、飛び出して行った。

 車のドアを開け、乗り込もうとした時、彼の顔の白いガーゼに気づいた。
 サングラスで隠しているが、目元が腫れ上がってる。腕にも痛々しい包帯を巻いていた。

「わかった?」

 彼はニヤリとわらった。「階段からおっこったんだ。乗って」

 車に乗り込むと、彼はゆるやかにバックさせ、車道に出た。
 わたしはろくに言葉もかけられずにいた。

 セーフだったのだろうか。最悪の事態ではなかったのか。だが、胸が騒いでならない。

「まいったよ、おれ保険ないからさ」

 彼はひとりで話した。「友だちに医者がいたから、タダでレントゲンとってもらった。骨は折れてないって。運がよかったよ。でも、仕事休んじゃったから、やっぱりよくないな」

「リッチー」

 わたしは思い切って言った。

「へんなやつにからまれてるのか」

「いいや」

 彼はあっさり言った。「階段以外にからまれてないよ」

「店のやつが言ってたぞ」

「ああ。コラヤンニさん。あんなの冗談だよ。なに、おれの貞操を心配してんの?」

 ああ、とわたしは不機嫌に言った。

「死ぬほど心配したさ」

「なんだ。おれ捨てられたのかとおもったよ」

 彼は冗談で言ったが、わたしはカッとなった。

「捨てたのはそっちだ。おれはプロポーズしたんだぞ」

 彼はそれにはこたえなかった。
 なめらかに車を止めた。赤信号だ。

「コワルスキーズに寄ろう。ビールと夕飯の材料買って。あんたの新しいアパートのキッチン、見たいな」

「いいとも。存分に見ろ。きみのだ」

 わたしは荒く鼻息をついた。「また、きみに来て欲しくて、大きいシステムキッチンを入れたんだ。ドイツ製の。おれはきみにぞっこんだからな。クソッ」

 リッチーは何か言いかけ、やめた。彼はだまって車を発進させた。
 サングラスで表情はよく見えない。だが、彼がなにか気後れしているのはわかった。いつもの軽口が出てこないのだ。

 リッチー、とわたしは哀れに頼んだ。

「また来てくれ。なんの約束をしろとも言わんよ。これまでみたいに、仕事が引けたら、また寄ってくれ」

「行くよ」

 リッチーの声は変だった。彼は咳払いして、

「ありがとう、レフ。うれしいよ」

 と言った。




 リッチーのからだは傷だらけだった。階段と取っ組み合いでもしたようだ。
 どうやって落ちると足の内腿に内出血ができるのだろうか。

「せんさくしないでくれ」

 リッチーはやさしくたしなめた。「おれといてくれるなら、詮索しないで。信じてくれない人とはいられないよ」

 わたしは面食らった。彼がわたしになにか警告したのははじめてだった。やさしい声だったが、威圧感さえ感じた。

「きみがそういうなら」

 わたしはしかたなく応じた。「だが、トラブルを抱えているなら、相談してくれ。危険なことでも、どんなことでも。きみのためならなんだってするつもりだ」

 リッチーは微笑んだ。答えのかわりに、わたしの首を強く抱きしめた。真っ暗な部屋で子どもがぬいぐるみを抱くように哀れな感じがした。

「レフ。さびしかったよ」

 彼を抱きしめ、わたしはふいにその胸に宿る痛みに気づいた。
 涙のように湿った、つめたい手触りの痛みがあった。

(くそ)

 わたしは思い出した。以前から、この違和感に気づいていた。彼のなかに、なにか見てはいけない秘密があり、触れられるのを畏れていた。

 わたしはそれを放っておいたのだ。なんだろうとは思いつつも、ふたりの間にかかわるような深刻なこととは思わなかった。

 どうしたらいいのだろう。リッチーはわたしに近づくなと言った。男が一度、助けはほしくない、と言った以上、おせっかいを焼くのは無礼だ。
 ただ、待つしかないのだろうか。

 だが、ひとりの男がわたしの前に現れた。




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