その日、わたしは仕事の打ち合わせの帰り、リッチーの店に寄った。
彼はいつものようにニコニコと出てきた。
「ひさしぶりだね。いつもの? それともエスカルゴになさいます?」
「出してみろ。エスカルゴ」
わたしはこれまでと同じく、コーヒーとパンケーキを頼んだ。
もうすぐ閉店だ。店が引けたら、彼を連れて帰ろうとおもった。
リッチーがこれでもかとジャムとクリームを盛ったパンケーキにかじりついていると、レストランのドアが開き、でかい男が入ってきた。
異質なものが入ってきたと思った。
その大男は安レストランに入る人種ではなかった。薄茶の髪を短く刈り込み、高級服を着こなし、清潔すぎた。
身ごなしが素人ではない。
彼は苛立たしげにフロアを歩き、案内を待たずに座った。
リッチーはオーダーを取りに出ない。客が来ているのを知りながら、ぷいと店の奥に入った。
べつのウェイターが出て行く。
いきなりガシャンとガラスの割れる音がした。大男がウェイターの盆をひっくり返したのだ。
「彼はなぜ隠れている。あの男を連れて来い。話があるんだ!」
ウェイターは、彼は早退した、といいわけした。だが、大男はいよいよ興奮し、厨房に向かってわめいた。
「シェパード! 出てこないなら、こちらから行って引っ張り出すぞ」
リッチーはすぐに出てきた。私服のコートを抱え、
「お客さま。こちらへ」
と冷ややかに言い、さっさとドアから出て行った。大男が口汚く罵りながらついていく。
(リッチー!)
わたしは仰天した。思うより先に、足が動いていた。ドアの前で大男の肩をつかみ、引き戻す。
「リッチーに何の用だ」
「なんだきみは」
大男はたじろいだ。柄こそ大きいが、暴力には慣れていないようだ。
「彼の友人だ。おまえこそなんだ。彼に何をしようって言うんだ」
レフ、と鋭い声がした。
リッチーが戻り、わたしにきびしく言った。
「やめるんだ。その人を放して」
だが、放せるものではない。男を睨み、唸っていると、リッチーは無理やりわたしの指を彼からはがした。
「なんでもないんだ。ちょっと言って話してくる。あとで、そっちに行くから」
帰ってて、と片目をつぶって見せ、彼は大男と出て行った。
深夜二時、リッチーは電話をかけてきた。
『ゴロニャーゴ。新人の門番にいって、通行許可を出してくれ』
階下の警備室に連絡し、彼があがってくるのを待った。
リッチーはいつものようにやってきた。
「腹減った。中華買ってきたけど、喰う?」
彼は勝手にテーブルに紙の箱を並べ出した。
顔に傷が増えている様子はない。いつもの彼に見えた。
だが、わたしは苺模様のハンカチを見たオセロのように疑心暗鬼になっていた。
ふつうにふるまう彼がふてぶてしい嘘つきに見えてしかたがない。
「身体検査する?」
彼は箸を紙パックにつっこみ、さりげなく言った。「からだに顕微鏡あてて、男の精液や、服の繊維かなんかくっついてないか、調べる?」
かまわないぜ、と麺をすくいあげる。
「いいかげんにしろ」
わたしはテーブルを叩いた。
「あれはなんだ。きみのなんなんだ。いや、きみは誰なんだ。リッチー・フェロンじゃないのか」
「フェロンじゃなかったらどうする。もう、おれが嫌いになるかい」
彼は麺をかきまぜた。くどいぐらいかきまわしていた。なかなか口に入れない。
にわかに顎をふるわせたと思うと、唇の端をぐいと下げた。黒い睫毛の先からひとつぶ涙を落とした。
「もう、おしまいだな」
麺を口にいれ、泣きながら食べた。
彼がなまの感情を見せたのはその時がはじめてだった。
わたしはいっぺんに狼狽してしまった。彼が胸の奥に仕舞っていた傷が氷山のように浮き上がっていた。
あの傷はこれだったのだ。別れの痛みだったのだ。
「リッチー。やつはきみのヒモかなんかなのか。きみを脅しているのか。あいつが好きなわけじゃないんだろ」
「ぜんぶ違うよ!」
彼は顎をふるわせ嗚咽した。紙パックの惣菜のなかにぽたぽた涙が落ちた。
箸を持つ手で目をおさえ、わめいた。
「言ったじゃないか! おれといたいなら、詮索しないでくれって。どうして放っておいてくれないんだ。なんで知りたがるんだ! ずっとここにいたかったけど、こんなんじゃもうダメだよ!」
肩が少女のようにふるえていた。
わたしはあわてふためいてしまった。彼が立ち去ってしまう。それだけはこまる。
「わかった。わかった!」
わたしは全面降伏した。「もういい。わかった。何も聞かない。きみを信じる。ここにいてくれ。お願いだ」
わたしは彼の謎に目をつぶることにした。
携帯を見つめる彼の目に疲れがよぎっても、給料のわりに彼の金回りがよすぎることに気づいても、それがチェックではなくすべて現金でも、見ぬふりをしてやりすごそうとした。
だが、耳をふさいでも少しずつ聞こえてくる。
――こないだ高級車に乗った黒人が迎えに来ましたよ。どうしちゃったんでしょうかね。
――この頃、しょっちゅう赤い目してんですよ。風邪かってきいたら、寝不足だって言うんですがね。シカゴに行ってきたって。
リッチーがとなりで寝息をたてている。首筋にキスマークをつけ、日なたの猫のように無心に眠りこけている。
脅かせば逃げてしまう。
彼がいるだけで満足しようとおもった。だが、知らずあの日のしゃれものの大男のことを考えてしまう。
大男は世界的に有名なデザイナーだった。同性愛者だということも公言していた。
仕事仲間とビールを飲んでいる時、彼の話が出た。
「あのコラヤンニには近寄りたくないね。どえらい変態だよ」
彼は鼻にしわをよせ、ぴらぴらと指を振った。「使っているお針子もみんなゲイ。屋敷にはまたずらっと美青年が待ってて、それが全員、首輪ひとつの裸なんだと」
こわい話聞いたことあるぜ、とほかの男も言った。
「やつは前、ゲイ専門の高級エスコートのお得意さまだったんだが、そこの男の子たちをいつもボロボロにしちまうんだそうだ。ひどいサドらしくて、殴ったり、蹴ったり、ケツの穴に足つっこんでみたり、あんまりにひどいんで出入り禁止になったって。――さっき、お針子って言ったけど、懲らしめだか、趣味だか知らないが、男の子を椅子に縛りつけて、アレを針差し代わりに使ってるって話だ」
男たちは身震いした。
わたしはその隅でひそかにふるえるほど憤っていた。
リッチーが椅子に縛りつけられているところを想像してしまった。
椅子の足に、足を括りつけられ、無防備にさらしたペニス。そこに銀の針が近づき、やわらかい皮膚の上で止まる。
彼の黒い目がおびえ、さるぐつわから悲鳴がもれる。哀願の涙があふれる。
金属の先端が皮膚に押し込まれる。のけぞる背。悲鳴。
(リッチー)
わたしは寝ていたリッチーを掻き抱いた。
「なに」
すぐに彼が寝声でこたえる。「また、たまってきた?」
「ばか。寝てろ」
「おれ、たまってきたよ。もう一戦やりたいな」
「寝てろって」
クスクス笑う彼のからだを抱きしめ、わたしは途方にくれた。
彼を苦しめたままにしておくことはできなかった。
トラブルがある。いつまでも見ぬふりはできないのだ。
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