第2話

「きみ、――」

 シャンパンのワゴンを押していくと、好色な客たちが声をかける。初見の人間はじろじろ胸を見る。

「その胸、重くないかい?」

「とくに」

「おっぱいは出るの?」

「出ませんよ」

 いまの主人はフランスの議員だ。政財界の知己が多い。
 こんなところにいても、名士たちはパーティーをひらき、せわしなく交流する。グラスを手に密約をかわし、飽きると犬を物陰に連れ込んで遊ぶ。

(つ)

 スカートの裾から入ってくる手を掴んで引き剥がすと、背後で老人がうめき声をたてた。

「嬢ちゃん。バカ力だね」

「犬が入用であれば、呼びましょう」

「おまえさんは犬じゃないのかい」

 こいつはおさわり禁止だよ、ととなりの客が言った。

「ルイのお気に入りだ。元剣闘士なんだ」

「知らんな」

「レオン・ケーニヒだ。エステスに負けた」

「おお、エステス。あの相手か。知ってる! あれはよかった! あの最後の――」

 下司の顔にシャンパンを浴びせようとした時、

「レオン、来てくれ」

 手を掴まれた。
 主人の甥のグレッグだ。ついていくと、庭に出ていった。
 庭はひとが少ない。

「グレッグ様。御用は」

「用? ああ」

 彼はふりかえった。

「月でも愛でよう」

「――」

 グレッグはあきらめたように眉をつりあげ、嘆息した。

「おれなら、おまえをあんな酔っ払いの前に出したりしない」

 おれが黙っていると、彼は言った。

「ルイ叔父から、おまえを貰い受ける」

「契約は済みましたか」

「まだだ」

「では、その後に」

 行こうとすると、彼は腕を掴んだ。

「レオン。おれを好きになれよ」

 抱きしめられ、おれは眉をしかめた。
 迷惑なやつだ。
 グレッグはいつもおれをかまう。哀れみたがる。

「放してくれ、グレッグ」

「いやだ」

 おれは、

「じゃあ、ヤれよ」

 と言った。

「さっさとやって放してくれ。それともおれに抱いてほしいのか」

 彼は手を放した。

「レオン、おれはおまえに」

「剣闘士に抱かれたいなら、所有権をとる必要なんかない。剣闘士訓練所にいけば、誰かしら抱いてくれる」

「――」

 彼はおれを睨んだ。

「おまえを買い取るぞ」

「好きにしろ」

 おれは言って、彼から離れた。

 グレッグはきらいだ。
 金持ちのぼんぼん。
 彼はおれに恋をしていると思い込んでいる。自分なら、おれを救えると思っている。

 だが、彼は何も救えない。たとえ、彼がおれを引き取り、手術してもとのからだに戻してくれても、おれはもとには戻らない。解放して外に出してくれても、壊れきったままだ。

 広間に戻ろうとした時、人々の間にしずかなざわめきが起きた。彼らの目は入ってきた人物に目を向けられていた。

 ――めずらしい。

 ――おお、あの男か。

 主人が手を広げて迎えに出ていく。

「アキヅキ子爵。これはうれしい――」

 おれはその男を見て、立ち止まった。うすく口をあいた。

 人々の間に、いつかみた幻がいた。
 いつかと同じ黒っぽいスーツ。東洋人の謎めいた白い微笑。

 あのふしぎな目だった。冷酷な、だが、慈悲深い、にぶい、だが、無垢な魔物の目。

 おれは知らず、唇に手を触れていた。
 あれは幻じゃなかった。あの日、広場で、絶望のなかで、おれはあの男に会った。




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