第3話 |
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あのひとは、広場にいた。 おれは架台に吊られ、ボロ布のようにぶら下がっていた。 人生を賭けた試合に負け、数知れぬ男たちに犯され、少し錯乱していた。 夕暮れで空は紫色に染まり、奇妙に明るかった。町のガラスに黄昏が映り、世界は明るくよどんでいた。 真正面に男が立っていた。 その男は黒いスーツを着ていた。建物の陰のせいで黒い片羽が広がっているように見えた。 東洋人のすべらかな顔。遠い世界に棲む、感情のうすい眼をしていた。 その男はまっすぐにおれに近づいた。 おれは見惚れた。死神だとおもった。これで終わる。 男はおれの前にきた。かすかに目をほそめた。すぐやわらかい唇をかさねた。 舌を合わせ、なぜか涙が出た。途方もないやすらぎに気をうしないそうになった。 死の解放と慈悲に打たれた。 なぜか、おれはこの美しい男のものだ、と思った。この男への血を流す供物だ、と思った。 キスをした。それだけで。 あの小さな光が、ずっと忘れられない。 「めずらしい男が来たな」 パーティーの二日後、主人の友人たちが集まった。 おれは彼らに酒を注いでいた。 「かなり出不精な男だと聞いたが」 「子爵の家は日本政府に関係がある。だからじゃないか」 「いやいや。首相クラスの人間が懇願しても出てこないと聞いた。偏屈な男らしい」 「もったいない。あの美貌で」 あの東洋人の噂をしていた。 客たちもあの男が気になっている。 「話していたら、なんでかあがっちまったよ。中学生みたいに」 「何か足にすがりたくなるような、こういう気持ちってあるんだな」 「ドミヌス、ってやつだ」 「ルイ。彼を紹介してくれないか。我が家にも来てもらいたい」 主人は子爵の噂に上機嫌だった。 「わたしもおどろいているんだよ」 彼は丸顔をやや上気させ、 「じつは子爵とは中庭で一度会ったきりなんだ。中庭で調教中、わたしが無理やり名刺交換してもらった」 友人たちがおどろく。 「それだけ?」 「もちろん、何度かお誘いはしたが、執事ごしに断られた。今回、なんで来てくれたのかわからん」 「あまりのあつかましさに辟易したか」 「ハゲには甘いのかもな」 友人たちは口々に彼の幸運をからかった。主人は意に介さない。 「這っている犬より、その主人のほうが美しかった。白昼だったが、彼のまわりだけ、陽炎がたつようだったな。なにかこう、おいそれと近づけない――」 「でも、近づいて口説いたんだな」 「そら、わたしゃフランス人だからな!」 どっと笑い声があがった後、末席にいたグレッグが言った。 「あの方もメイドをひとり飼っているようですね」 おれはつい、彼を見た。 「そうなのか」 「すごくきれいな子ですよ。日本人の子。よく公園に乳母車を押してきます。まだメイド服が恥ずかしいみたいですね」 「おお」 日本犬はいいね、と客たちが話題にのった。 「飼ってるやつは、みんな言ってるよ。さわり心地がいいらしい。肌がきれいなんだ。くさくないし、いつまでも老けない」 「やさしい子が多いらしいね。忠実で」 グレッグはさらに言った。 「近くで見ましたが、ほんとうに女の肌と同じです。少し緊張すると、頬がバラ色になって、でも、眉がきりっと締まるんです。サムライの子孫ですね。目がまたうぶで、黒目がちでみずみずしい。あれが夜、涙でうるむのかと思うと」 「よせ。欲しくなる」 客たちは笑った。 「ルイ。どうだ、新しく日本のメイドは」 主人はすでに考え込んでいた。 「欲しいんだよ。子爵を見てから、一匹欲しいと思ってた。だが、いま出物が少ないんだ。中国人の子はけっこう出ているが、日本の犬は出る端から売り切れてしまう」 「子爵に譲ってもらえばいかがです?」 グレッグのあつかましい提案に、人々はおどろいた。 「子爵はその子を売りに出しているのか」 「いや、出してはいませんが、欲しいといえばくれるんじゃないですか。以前、その子にちょっかいだした男が、譲ってくれと頼んだら、あっさりくれたそうですよ」 客たちはうなった。 「情のない男だな」 「面倒くさがりなのかも」 グレッグはいやに饒舌だった。 「子爵はヴィラには、もっぱら寝に帰ってきているという話です。ふつうの睡眠のほう。犬もかまいますが、あまり執着はないんですよ。彼ほどの器量だと、犬以外にもいくらでも遊ぶ相手はいるわけですから」 グレッグの意図はわかる。 主人の気を新しい犬にそらせ、おれを自分に譲らせようと言う魂胆だ。 そんなたくらみには関係なく、おれはその日本犬が気になった。 あのひとの犬。 あの男が手元に置くような犬が、どんな顔をしているのか見たかった。 「頭痛がする」 おれは病院に行かせてくれ、といって外に出た。 公園に向かった。 例の犬がその時間に来るのかどうかわからない。見てどうするのかもわからない。 だが、その犬は子爵への唯一のつながりだった。なにか、あの男を感じるものに近づきたかった。 公園にたどりつくまでに少し手間取った。 街中にうすい林のような空間があった。木々の下を通ると、空き地が開ける。 かまどが点在し、二三の犬が何かを焚いていた。 さらに奥に芝生が敷かれた広場がある。 乳母車があった。 その下におむつをつけた男が寝そべっていた。 少し離れた草の上に、日傘を差したメイド服の犬が座っていた。 おれは立ち尽くした。 メイドのひざに黒い髪の男が頭をあずけ、眠っていた。 あの男がそこにいた。 メイドは何か言って笑っていた。眠っていた男はうるさそうに片手をのばした。メイドの首を引き寄せ、唇をふさいだ。 日傘の下、一瞬見えたメイドの伏せた睫毛が少女のようにういういしかった。 おれはそこにいながら、地の底に吸い込まれていくような気がした。 |
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