2013年4月1日〜15日
4月1日 カシミール 〔未出〕

 だが、アキラは許さなかった。

「ちゃんと話せよ。客は審査を受けて入って来ている。頭に異常はない。みんなにも迷惑がかかってるんだぞ」

 クリスは頬を押さえ、しばらくうなった。

「言いにくいんだよね。わたしの事情もいろいろ複雑で」

 だが、話した。アシュリーの父親ミルトン・ロスは上院議員だった。二年前、ある男に殺された。男は議員のオフィスを襲い、警護に射殺された。

「それがなぜか、おれのせいということになった。おれと犯人と会社の取引があったから。それだけで」



4月2日 カシミール 〔未出〕

「そんなアホな」

 アキラが眉をひそめたが、

「でも、そうなんだ。なぜかおれが主犯で、犯人が従犯ではないかと疑われた」

「で、逮捕されたのか」

「うん」

「え?」

 おれたちはぎょっとしてクリスを見た。

「司法取引して逃げてきた。裁判なんてやってられなかったから」

 ちょっと待て、とアキラが聞きただした。

「つまり、一応君は有罪を認めたのか」

「そうですよ」

 クリスは見返した。

「実際には無実ですが、裁判に勝つ見込みがなかった。長い懲役から逃げるにはそれしかなかったのでね」



4月3日 カシミール 〔未出〕

 クリスの話はショックだった。解散した後も数日、心乱れていた。

 クリスが。議員謀殺の被疑者? しかも司法取引した? 

(こういうところだものなあ)

 ここは人身売買組織である。どんな過去の人間がいてもおかしくはない。おかしくはないが、やはり気後れしてしまう。

 おれはクリスに惹かれていた。最近は船長とつるむことが多いが、クリスがかまってくると楽しかった。

 彼はおれの知らない世界を持っている人間だ。とはいえ、こんなにブラックな世界を抱えているとも思わなかった。



4月4日 カシミール 〔未出〕


 一応、緘口令がしかれたため、あの日のことは誰にも話せない。

 クリスもふつうに過ごしている。口の端に痣をつけたまま、ふつうに仲間と笑っている。
 その変化のなさがうすら寒い。

「おれがこわいの?」

 クリスがおれをからかう。彼は見透かしている。
 正直に言うしかなかった。

「うそつきには、免疫がなくて」

 クリスは笑い、おれの頭を撫でて出ていった。

(この人は器用すぎる)

 知恵が走りすぎる。その分、正義ももちあわせているだろうか。本当に議員の殺害に関わっていないんだろうか。



4月5日 カシミール 〔未出〕


 アシュリーは行動を開始した。彼は噂を流した。人殺しの件ではない。

『クリス・リッツはCIAのスパイだ』

『合衆国政府はここの顧客リストを把握している』

 おどろいた客から家令やデクリオンに電話が入っている。

「こうきたか」

 イアンが眉をしかめた。イアンも先の事件は知っていた。

「これは、面倒くさいな」

 ずいぶん深刻だ。こんな子どもの噂みたいな根も葉もないウソに惑わされるものなのか。
 そう聞くと、ラインハルトが肩をすくめた。

「じつは根も葉もあったりして」



4月6日 カシミール 〔未出〕


 なんと、クリスがCIAにいたというのは事実だという。

 おどろいた。おどろいたが、彼の器用さも合点がいった。
 ラインハルトは手を振って、

「上のほうはもちろん把握してるんだよ。それは問題じゃない。ほかにも情報局出身のスタッフはいるし、何であってもかまわないのさ。ここの秘密を出したら――なんだから」

 と人さし指で首の前に線を引いた。
 情報漏洩の心配はない。

 だが、客にとっては気味が悪いものだ。金持ちにとっては殺人犯よりも、スパイに隣にいられるほうが落ち着かない。



4月7日 カシミール 〔未出未出〕


 アシュリーのネガキャンの影響が出始めた。

「メルの担当を頼む」

 アキラがおれに犬を振り替えた。

「いいけど」

 メルはもともとおれが躾けた犬だ。先日、CCを任された時、交換でクリスに代わったのだ。
 だが、メルの主人はクリスを警戒したらしい。

 担当代えまでいかなくても、セッションのキャンセルはあいついでいる。

「噂がでかくなってるな」

 ルイスも笑う。

「クリスが誰それの失脚に関わったとか、どっかの連続殺人事件にも噛んでるとか。クリス、活躍しすぎだ」



4月8日 カシミール 〔未出〕


 家令は一応、アシュリーに妙な噂を流すなと警告したようだ。

『スタッフの信用を損ねることはヴィラへの敵対行為にもなります』

 アシュリーは鼻でわらった。

『おれは彼がCIAだと言っただけ。あとの尾ひれは勝手についた。それに』

 ここは各国の貴顕が集まるサロン、情報工作員だった人間を近づけるほうがおかしい、と応酬した。

 その論をアクイラでもぶったようで、パトリキたちの中には賛同する人もあった。

「彼は声がでかいね。今、ちょっとした人気者だよ」

 と支配人は苦笑した。



4月9日 カシミール 〔未出〕
 

 クリスのまわりから人が減っていくのがはっきりわかる。

 元情報員と知って面白がる向きもあったが、多くの客は用心した。

 彼はオフィスにいることが多くなった。
 さらにデクリアの中でさえ、妙な空気が流れている。

 アキラはふつうに接しているように見えるが、あきらかに以前と違う。薄い壁がある。ニーノもクリスに話しかけなくなった。

 ルイスはとまどっている感じだ。気をつかって、よく話しかける。ラインハルトと船長、キーレンは以前のままだ。

 そして、おれはなぜかイライラしている。



4月10日 カシミール 〔未出〕


「うまいな、あんた。おれ、いつもここで死ぬのよ」

「ここじゃあ死なんだろう。ふつう」

 船長とクリスがビデオゲームで遊んでいる。音声は出していないものの、ふたりの声はうるさかった。

「あんたら報告書は作ったのかよ」

 おれがとがった声を出すと船長が言った。

「まだ。これさ。わんこがやってて、ちょっとクリスに教わってんのよ。対戦しなきゃなんないから」

「ヒマがあるやつはいいよな!」

 おれはつい言ってしまった。

「そっちはゲーム。こっちは余分の犬さばくのに予定ぎっしりだ」



4月11日 カシミール 〔未出〕
 

 露骨なイヤミに、船長はぽかんとした。

「どしたの」

「……」

 クリスがヘッドフォンをはずす。

「おれの犬を振りわけられたのに、遊んでられたら腹たつよな。なんかできることあったら言ってくれ」

 おれはもう何も言えず、オフィスから出た。

 怒りと自己嫌悪でいっぱいだ。自分が何に腹をたてているのかよくわからない。

 携帯が鳴り、家令からの指令を聞いてさらに気分がわるくなった。

『ロス氏(アシュリー)が自分の犬を見たいそうだ』



4月12日 カシミール 〔未出〕


 CCはすでに調教の済んだ扱いやすい犬だ。性質も温和で、人によくなじむ。

「とてもセクシーだ」

 アシュリーは微笑み、自分の犬をほめた。
 だが、犬が自分の靴にキスすると、少しあっけにとられたような顔をした。

(SMははじめて?)

 そういう客もいる。SMを好まない客もいる。

「ええと、連れまわしても大丈夫かな」

「もちろん」

 おれはCCにリードをつけ、その膝にニーパットをつけた。

「ひざ、やっぱり痛いよな」

 パットを嫌がる客も多いが、アシュリーはおれの勝手な措置を叱らなかった。



4月13日 カシミール 〔未出〕


 犬は淡々と廊下を這っている。主人の脇につき、たまに主人を見上げて指示を待った。

 主人のほうが赤い顔をしている。犬が少し前に出ると、あきらかに目のやり場に困るように視線をあげた。

「SMはお嫌いでしたか」

 犬に水を飲ませている間、おれはアシュリーにたずねた。

「慣れない」

 彼は小さく言った。

「こんなことしていいのかってドキドキしてる」

「ふつうに遊ぶこともできますよ。クビクルム(寝室)を取りますか」

 彼はそれは断った。散歩は続けたいようだ。

「きみと話もしたいしね」



4月14日 カシミール 〔未出〕


 庭園で犬に休息をとらせ、アシュリーはおれをベンチに座らせた。

「クリスは、どうしてる?」

「特に――ゲームしてますよ」

 おれの声はわずかに硬かった。彼は少し何か考えていたが、

「きみは彼の恋人?」

 と聞いた。

「仲間です」

「あいつが好きかい?」

 おれは少し不愉快になった。

「ええ。仲間ですから。おれがトラブルに見舞われた時、彼は助けようと手を尽くしてくれました」

 アシュリーはまた沈黙した。少しして、

「おれには兄貴がいたんだ。クリスとつきあっていた」



4月15日 カシミール 〔未出〕


 アシュリーの兄エヴェレットは保守的な男でゲイ嫌いだった。

「兄貴はおれと違って、ゴツくて、でかいんだ。大学の頃はフットボールとカラテやってた。

 でも、たしかにハンサムではあったよ。金髪で。ガキの頃は美少年だっていって、女たちにモテモテだった。すごくシャイな人なんだけどね」

 政治に興味はなく、ロス家の系列にある建設会社の経営に携わっていた。
 そこにクリスがコンサルとして乗り込んできた。



 
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